fc2ブログ

国民のための大東亜戦争史96~98大東亜戦争の本質

【大東亜戦争の本質】


96、大東亜戦争の本質

 国際法上、戦争は国際紛争を解決するための最終手段(決闘)であり、講和条約の発効によって終了する。従って大東亜戦争の終結日は昭和二十年八月十五日ではなく、昭和二十七年(一九五二)四月二十八日のサンフランシスコ講和条約の発効に続いて日ソ共同宣言が発効し、日ソ間の戦争状態が終了した昭和三十一年(一九五六)十二月十二日である。

 サンフランシスコ講和条約第一条a「日本国と各連合国との間の戦争状態は、第二十三条の定めるところによりこの条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日に終了する。」

 日ソ共同宣言第一条「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の戦争状態は、この宣言が効力を生ずる日に終了し、両国の間に平和及び友好善隣関係が回復される。」

 然らば、大東亜戦争の起源は何時とすべきか?戦後日本の通説では廬溝橋事件(昭和十二年七月七日)ないし真珠湾攻撃(昭和十六年十二月八日)であるが、いずれも正しくない。

 東京裁判において日本断罪の根拠となった不戦条約(1)が締結され、帝国主義戦争に反対する闘争と共産主義者の任務に関するテーゼ(コミンテルン二十八年テーゼ)が発表された昭和三年(一九二八)、世界最終戦争による世界恒久平和を構想した「戦争の天才」石原莞爾が関東軍作戦参謀として満洲に赴任し(十月)、同年の三・一五事件の検挙から奇跡的に逃れた「謀略の天才」尾崎秀実が朝日新聞社上海支局に転勤し(十一月)ソ連のスパイとなり、世界共産主義革命による世界恒久平和を構想したことから、大東亜戦争は始まったのである。

 第一次欧州大戦後、ヨーロッパに蔓延した反戦平和主義者が戦争の惨禍の再発を恐怖し回避しようとする余り、ナチスドイツの軍事膨張に対する宥和政策を生み出し第二次欧州大戦を勃発させ、世界恒久平和の実現をめざした日本の二人の天才が大東亜戦争の勃発を主導したのである。第二次世界大戦は、「平和主義は時として大きな戦争を引き起こす」という悲しい逆説を証明したのであった…。

 そして大東亜戦争の本質は、人種と資源をめぐる宿命の戦い(小林よしのり)、門戸開放主義をめぐる日米抗争、共産主義との戦いという二大底流の合する所に生起せる戦争(中村粲)ではなく、第一次日露戦争(一九〇四~〇五)、第二次日露戦争(シベリア出兵、一九一八~二二)に次ぐ第三次日露戦争(一九二八~五六)というべきであろう。

 第一次日露戦争にて大日本帝国は明石元二郎大佐をロシア帝国に派遣し、その革命気運に乗じてその内部に諜報謀略網を組織して大勝利を収め、第三次日露戦争にて国教をロシア正教からマルクス・レーニン教に替えたソビエト・ロシアは尾崎秀実とリヒャルト・ゾルゲを大日本帝国に派遣し、その革新気運に乗じてその内部に諜報謀略網を組織して大復讐を果たしたのである。

 日露間の講和条約がポーツマスで両国政府代表によって調印された後、明石大佐はヨーロッパを去るにあたり、参謀次長の長岡外史少将に宛てて長文の手紙を書き送り、ロシアのロマノフ王朝はいずれ民衆の大々的な蜂起によって崩壊し、その後に来るものは社会主義、共産主義の潜行跋扈である、と的確に予想し、日本は戦勝に油断することなくこれに対抗する準備を直ちに開始しなければならないことを力説した。

 しかし明石元二郎は、その後、歩兵第七連隊長、韓国駐留軍参謀長兼憲兵隊長、参謀次長、第六師団長、台湾総督兼台湾軍司令官を歴任し、彼から諜報謀略の威力を学んだレーニンが世界赤化の参謀本部としてコミンテルンを創設してから七ヶ月後の大正八年(一九一九)十月二十四日、脳溢血に襲われ五十五歳の若さでこの世を去ってしまった。明石は、レーニンそしてスターリンが指揮するコミンテルンの世界赤化の野望を打ち砕く力を持つ偉大な軍人だっただけに、彼の急逝は、大日本帝国だけでなく世界人類にとって真に不運であり不幸なことであった(2)。

 大東亜戦争中、大本営陸軍部情報部の堀栄三少佐は、諸種の情報を徹底的に収集分析してアメリカ軍の作戦行動を的確に先知し、マッカーサー参謀という異名を取ったが、彼は、陸軍士官学校卒業後、騎兵少尉に任官してから、陸軍大学校卒業後、士官学校戦術教官を経て、昭和十八年十月一日、情報部ドイツ課付参謀に起用されるまで、一度も情報教育を受けたことがなく、堀少佐はたまたま情報部に起用され、困惑しながらも勤務中に情報戦のイロハを学び、天性の情報能力を開花させたのである。

 参謀将校を養成する陸軍大学校には、情報学級も特殊な情報課程もなく、わずかに情報訓練が行われたこともあったが、それも戦術や戦史、通信課程の付随的なものに過ぎず、大東亜戦争中の我が国では、情報戦の素人が突然に大本営陸軍部の情報参謀に起用され実務を任されるという、信じ難い人事が行われていたのである(3)。

 およそ戦いに身を投ずる者は、分野を問わず、休戦後に必ず戦いの軌跡を正確に分析し、敗因を克服し勝因を継承し、次の戦いに備えなければならない。 

 我が国の政府軍部首脳が明石大佐の大活躍を目の当たりにしながら、日露戦争後に明石を長とする統合情報機関を創設せず、陸軍大学校で諜報謀略防諜を含むあらゆる情報戦の教育を充実させ明石大佐の経験を学生に学ばせなかったことは、孫子の兵法に反する大失態であった。

 昭和十五年(一九四〇)七月二十七日、イギリス駐日大使クレーギーと親しいロイター通信東京支局長ジェームス・コックスが英国系船舶会社支配人の海軍予備大佐アダムス某と共にスパイ容疑で逮捕され、三十一日、監視憲兵の隙に乗じて飛び降り自殺した(4)。山口富永氏は「昭和史の証言真崎甚三郎」四十八頁に、

 「昭和十六年(ママ)に、コックスというドイツ共産党のスパイが、憲兵隊に逮捕されて取り調べを受けている時、そのすきを狙って取調室の二階から飛び降りて自殺したことがあった。この時、このスパイの手帳の中に『日本の大官、顕官を全部とりこにすることができた。但し、陸軍の真崎だけは梃子でも動かなかった』と書きしるしてあった、と筆者はある筋の権威者から聞いた」

と記述している。

 すなわち我が国の敗因は、報復の原則(敵が新しい兵器戦術戦略を使用すれば、味方はそれらを模倣しその対策を立て報復すべし、味方が新しい兵器戦術戦略を使用する際は、敵がそれらを模倣しその対策を立て報復を仕掛けてくることに備えるべし)を弁えず、国策を立て機密を作る国家中枢部に対する防諜体制の強化を怠った政府議会軍部の慢心、天皇尊重を表向き装いながら私有財産制度と資本主義(自由主義的市場経済)を否定する共産主義者を転向者と判定して釈放し、政府軍部民間内部への彼らの侵入を許してしまった治安維持法に基づく警察取締の寛容、そして共産主義者を生み出すマルクス・レーニン教の蔓延を防止するための尊皇護国反共の精神を涵養する教育の不足であった。

 国家に物資が満ち溢れ高度な科学技術が発達しても、国家の栄枯盛衰は国家を動かす人に在り、而して人の正邪曲直は人を動かす内なる精神によって決せられるのである。

(1)我が国を代表する国際法家の信夫淳平は、第三十三回学士院恩賜賞を受けた戦時国際法講義(信夫淳平著/丸善、一九四一)第一巻七〇二頁に不戦条約に対する次の辛辣な批評を引用している。

 「ケロッグ氏の原提案は戦の無条件的抛棄であった。然るに仏英両国の解釈の限定を受けたる結果として、本条約は最早や戦の抛棄を構成せざるものとなった。当事国各自が勝手に解釈し、勝手に裁定する所の自衛という戦は、本条約に依り総て認可せられる。これ等の例外及び留保の巾さを考うるに於ては、過去一百年間に於ける何れの戦も、また向後のそれとても、一つとしてその中に編入せられざるものありとは思えない。本条約は戦を抛棄するどころか、之を公々然と認可するものである。戦なるものは過去に於ては、適法でも違法でもなき一種の疾病と見られた。然るに今日は、この世界的の一条約に依り、事実総ての戦は公的承認の刻印を得たのである。本条約第一条の単なる抽象的の戦の放棄は、本条約に付随する解釈に依りて認可せられたる具体的の戦の前に最早や之を適用する余地は全然無いのである。」(Borehard & Lage,Neutrality for the U.S.,pp.292-3)

 信夫も不戦条約の解釈を分析した上で「自衛の果たして自衛なるやは、個人間の正当防衛が裁判所に依りて判定せらるるのとは異なり、戦を遂行する国自身が判定するのであるから、自衛戦を適法と認むる不戦条約の下にありては、殆ど全ての戦は適法の戦として公認せらるるのである。不戦条約は不戦どころか、大概の戦の遂行を適法のものとして裏書きするものである」と指摘し、不戦条約による戦争の違法化を否定した(戦時国際法講義第一巻七〇三頁)。

 極東国際軍事裁判所インド代表判事のラダビノッド・パルは、不戦条約に関して博引傍証した上で次のように結論づけた(パル判決書上三一六~三五二頁)。

 「国際生活において、自衛戦は禁止されていないばかりでなく、また各国とも、『自衛権がどんな行為を包含するか、またいつそれが行使されるかを自ら判断する特権』を保持するというこの単一の事実は、本官の意見では、この条約を法の範疇から除外するに十分である。ケロッグ氏が声明したように、自衛権は関係国の主権下にある領土の防衛だけに限られていなかったのである(中略)。
 本官自身の見解では、国際社会において、戦争は従来と同様に法の圏外にあって、その戦争のやり方だけが法の圏内に導入されてきたのである。パリ条約は法の範疇内には全然はいることなく、したがって一交戦国の法的立場、あるいは交戦状態より派生する法律的諸問題に関しては、なんらの変化をももたらさなかったのである。」
(2)豊田穣【情報将軍明石元二郎】四〇三~四一一頁。
(3)堀【大本営参謀の情報戦記】一七頁。
(4)大谷敬二郎【昭和憲兵史】三九二~三九六頁。


97、戦闘休止後の戦争

 トラウトマン和平工作の終了以降、日支和平交渉の仲介人を務めた萱野長知は、上海における松本重治との会見を「運命の日であった」と省み(1)、昭和十三年の宇垣・孔祥煕工作の流産後も、汪兆銘政権樹立工作を「子宮外妊娠」と批判し(2)、

 「汪兆銘を成立せしめても長びくのみにて喜ぶ者は共産党と英、仏、露、米国らのみ」

と看破して(3)、日本政府と蒋介石政権との直接和平を実現するために日米開戦直前まで日支間を懸命に奔走した。その志はついに成就しなかったものの、昭和二十一年、吉田茂内閣は長年にわたる萱野の功労に報いるために萱野を勅任の貴族院議員に推挙した。だが萱野は「野人その任に非ず」とこれを固辞し、翌年四月十四日、この世を去った。

 昭和二十年九月一日、萱野長知は、古くからの同志に宛てた手紙の中で、日支提携を衷心より望んでいた孫文と義兄弟の契りを結んだ間柄でありながら、日支間の全面和平を回復できなかった自分の無力を恥じ、断腸の思いをにじませながら敗残日本の行く末に絶望したのであった・・・(4)。

 「去る十九日御認めの御書面只今拝読致候。実は此頃如何ヤと御案じ中に有之処、次第に御快方の由、安心致候。東哥々のお宅は戦災に罹りたる由、未亡人もお困りとの事と拝察申上候。但し老兄の方面は御無事なりしは不幸中の幸と存候。小生の芝の宅は没有と為りたるも、腰越は戦災を免れ申候。但し此頃は多数の聯合艦隊が江の島付近より小田原三崎方面にかけて浮城を築き、夜は不夜城にて恰も海市の如く、洋中の壮観を現わし申候。

 我七十三歳、始めて夷・斉の心持ちを理解致候。但し首陽山がないのでお米さんの御領地で飯を食い、湘南に釣して余生を送らんかなと思居候。重慶の旧友も段々やって来ると思わる。我等何の面目あって彼等を見んか。最早娑婆っ気を脱して乾坤無用人と相成可申候。『把竿何処之、江島泛扁舟、世事不評論、応和欸乃叟』とは予め覚悟に候へども、凡夫の悲しさ時に愚痴も出で可申候。此方面はエサ無之、大に痩せ申候。皺腹を切るも不甲斐なき心地致候。命長くして辱多しとは、古人今人一様に存候。

  八月十五日偶筆 擬荘宗詞韻

一葉落。乾坤寞。如今万物当新作。
回頭心肝寒。紅嵐吹戒幕。吹戒幕。
錯雑都荒漠。

  又擬長左思詞体韻

先覚憂。後覚憂。憂悶傷心何歳休。
亜東雲肖愁、人涕流、鬼啾啾
鬼怒人悲仇未酬。仰天又垂頭。

 こんな気持致居候。老兄以て如何と為す。早く全快して焼野原の京浜其他大中小の都市を一見するも参考と為るべし。覇道の末路はこんなものなり。
 お気の毒の人は腹を切り、ツケ火の張本人はノホホンで巧みに時めく、之では立直りの見込み更に無之候。我兄以て如何。首相宮殿下のお陰で言論通信自由と為れり。時には通信致度く候。長知」

 翌日、我が国の政府統帥部代表はアメリカ海軍戦艦ミズーリ号上でポツダム降伏文書に調印した。昭和二十年九月五日、内閣総理大臣の東久邇宮稔彦王は、第八十八回帝国議会(昭和二十年九月一日召集、四日開院式、六日閉院式。帝国憲法第四十三条「臨時緊急の必要ある場合に於いて常会の外臨時会を召集すべし臨時会の会期を定るは勅命に依る」に基づく)における以下の「戦争終結に至る経緯竝施政の方針に關する演説」の中で、ポツダム宣言の履行と帝国憲法の尊重、そして自由主義および議会制デモクラシーの復活強化を高らかに宣言した(5)。

 「是より先、米英支三国はポツダムに於て帝国の降伏を要求する共同宣言を発し、諸般の情勢上、帝国は一億玉碎の決意を以て死中に活を求むるか、然らざれば終戦かの岐路に立つたのであります、日本民族の将来と世界人類の平和を思わせられた大御心に依り、大乗的御聖断が下されたのであります、即ち「ポツダム」宣言は原則として天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの諒解の下に、涙を呑んで之を受諾するに決し、茲に大東亜戦争の終戦を見るに至つたのであります。

 帝国と連合各国との間の降伏文書の調印は、本月二日横浜沖の米国軍艦上に於て行はれ、同日御詔書を以て連合国に対する一切の戦闘行為を停止し、武器を措くべきことを命ぜられたのであります。顧みて無限の感慨を禁じ得ませぬと同時に、戦争四年の間、共同目的の為に凡ゆる協力を傾けられた大東亜の諸盟邦に対し、此の機会に於て深甚なる感謝の意を表するのであります、連合国軍は既に我が本土に進駐して居ります、事態は有史以來のことであります、三千年の歴史に於て、最も重大局面と申さねばなりませぬ、此の重大なる国家の運命を担って、其の向かうべき所を誤らしめず、国体をして彌が上にも光輝あらしむることは、現代に生を享けて居りまする我々国民の一大責務であります、一に懸つて今後に処する我々の覚悟、我々の努力に存するのであります。

 今日に於てなお現実の前に眼を覆い、当面を糊塗して自ら慰めんとする如き、又激情に駆られて事端を滋くするが如きことは、到底国運の恢弘を期する所以ではありませぬ。一言一行悉く天皇に絶対帰一し奉り、苟くも過たざることこそ、臣子の本分であります、我々臣民は大詔の御誡めを畏み、堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで、今日の敗戦の事実を甘受し、断乎たる大国民の矜持を以て、潔く自ら誓約せる「ポツダム」宣言を誠実に履行し、誓つて信義を世界に示さんとするものであります。
 
 今日我々は不幸敗戦の苦杯を嘗めて居りますが、我々にして誓約せる所を正しく堂々と実行するの信義と誠実を示し、正しきと信ずる所は必ず之を貫くと共に、正しからざる所は速かに之を改め、理性に悖ることなき行動に終始致しまするならば、我が国家及び国民の真価は必ずや世界の信義と理性に訴え、列国との友好関係を恢復し、茲に万邦共栄の永遠の平和を世界に現わし得べきことを確信するのであります。
 
 今後に於ける我が外交の基本も、正しく之に存するのであります、畏くも大詔に於きましては「世界の進運に後れさらむことを期すべし」と御示しになつて居ります、私共は維新の大業成るに当たり、明治天皇御自ら天地神明に誓わせられました所の五箇條の御誓文の御精神に復り、此の度の悲運に毫も屈することなく、自肅自重徒らに過去に泥まず、将来に思い迷うことなく、一切の蟠りを去つて虚心坦懷、列国との友誼を回復し、高き志操を堅持しつつ、長を採り短を補い、平和と文化の偉大なる新日本を建設し、進んで世界の進運に寄与するの覚悟を新たにせんことを、誓い奉らなければならぬと存じます。

 組閣の大命を拝するに当たりまして、畏くも天皇陛下に於かせられましては私に対し、『特に憲法を尊重し、詔書を基とし、軍の統制、秩序の維持に努め時局の収拾に努力せよ』との有難き御言葉を賜わりました、私は此の有難き大御心に副い奉ることを唯一の念願として、之を施政の根本基調として、粉骨砕身の努力を致し、国民の先頭に立ち平和的新日本の建設の礎たらんことを期して居ります。

 国民諸君も亦畏き聖慮の存する所を再思三省され、心機一転、溌剌清新の意気を以て、新たなる御代の隆昌に向つて勇往邁進して戴きたいのであります。是が為に特に溌剌たる言論と公正なる輿論とに依つて、同胞の間に溌剌たる建設の機運の湧上ることが、先づ以て最も重要なりと信ずるのであります。私は組閣の初めに当たりまして建設的なる言論の洞開を促し、健全なる結社の自由を認めたき旨意見を表明する所があつたのでありますが、政府と致しましては、言論の尊重、結社の自由に付きましては、最近の機会に於きまして言論、出版、集會、結社等臨時取締法を撤廃致したき意向であり、既にそれ等の取締を緩和致しましたことは(註、八月二十八日)曩に発表致しました通りであります。

 苟くも国民の能動的なる意欲を冷却せしむるが如きことなきよう、今後とも十分留意して参る所存であります、特に帝国議会は、国民代表の機関として名実共に真に民意を公正に反映せしめ得る如く、憲法の精神に則り正しき機能を発揮せられんことを衷心より希望するものであります。」

 ポツダム宣言第五項には「吾等の条件は、左の如し、吾等は、右条件より離脱することなかるべし」とある。文字通りポツダム宣言とは連合国が我が国に有条件降伏を要求するものであり、宣言に列挙された連合国の対日条件は、連合国および大日本帝国の双方に権利と義務を課したのである。しかも日本政府は、「疑わしきは主権に有利に解釈せらるべし」という国際法の大原則に基づき、ポツダム宣言の曖昧な部分を日本側の有利に解釈し、可能な限り日本帝国の義務を軽減することができた。
 アメリカ国務省はこのことを熟知しており、ポツダム宣言によって連合国が計画していた日本に対する無条件降伏政策が著しく変更されたことに困惑していた。無条件降伏政策の骨子は以下の通りである。

1、敗者の発言権をすべて剥奪し、勝者が何でもできる権利を確保すること。
2、敵国の長期無力化、半永久的武装解除を実施すること。
3、今後戦争を起こすことができないように敵国の社会的基盤を完全に破壊すること
4、これらの政策を実行するために敵国を長期占領して占領下で徹底した改革を実施すること。

 そこでアメリカ政府は、日ソ中立条約を蹂躙したソ連の遣り方を模倣し、昭和二十年九月二日に連合国および日本国を拘束する国際条約(厳密には休戦協定)となったポツダム宣言を全条項に亘り蹂躙することを決定した。同年九月六日、アメリカ政府はトルーマン大統領の承認を得て「連合国最高司令官の権限に関するマッカーサー元帥への通達」を発し、「われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立っているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高である」と訓示した。そして十五日、占領軍最高司令官のダグラス・マッカーサーは日本側に次のような命令を発表したのである。

 「マッカーサー元帥は、連合国はいかなる点においても日本国と連合国を平等にみなさないことを、日本が明確に理解するよう希望する。日本は文明諸国間に地位を占める権利を認められていない。敗北せる敵である。最高司令官は日本政府に対して命令する。交渉はしない。」

 我が国の政府はこの声明を聞いて驚愕した。ポツダム宣言の受諾に伴う日本国の国際的地位について十分に研究していた外務省の萩原徹条約局長は、次のように反論した。

 「日本は国際法上、条件付終戦、せいぜい有条件降伏をしたのである。何でもかんでもマッカーサーのいうことを聞かねばならないないという、そういう国として無条件降伏をしたのではない。」

 しかし反論がGHQに受け容れられるはずもなく、荻原局長はGHQの怒りを買い左遷を命じられた。日本列島を占領した連合軍は、対日要求の一つであった日本軍の無条件降伏と武装解除すなわち日本国の非武装化に乗じ、ポツダム宣言を蹂躙して残酷な対日追撃戦を開始、空前絶後の大検閲と約三十万人の公職追放を行い、東久邇宮内閣が復活させた帝国憲法下の自由を抹殺し、帝国議会に対する介入と干渉を繰り返し、日本国民から歴史の真実を知る機会を奪い、国防治安法体系および伝統的な家制度と教育制度とを破壊し、報道と教育を通して大量の反軍反日的虚偽情報を流布するWGIP(War Guilt Information Program、戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)を実施して(6)、日本国民とりわけ知識と判断力を欠き洗脳に対して無防備な児童生徒(一九三三年~一九四五年生まれ)から愛国心と国防意志と敢闘精神を喪失させ、日本国に「戦後民主主義」というマッカーサー占領軍憲法(日本国憲法)体制を残していった。

<日本国憲法を起草したGHQ民政局員>

〈運営委員会〉C・L・カーディス陸軍中佐、A・R・ハッシー海軍中佐、M・E・ラウエル陸軍中佐、R・エラマン嬢
〈立法権に関する委員会〉F・E・ヘイズ中佐、G・J・スウォーブ海軍中佐、O・ホージ海軍中尉、G・ノーマン嬢
〈行政権に関する委員会〉C・H・ピーク、J・I・ミラー、M・J・エスマン陸軍中尉
〈人権に関する委員会〉P・K・ロウスト陸軍中佐、H・E・ワイルズ、B・シロタ嬢
〈司法権に関する委員会〉M・E・ラウエル陸軍中佐、A・R・ハッシー海軍中佐、M・ストーン嬢
〈地方行政に関する委員会〉C・G・ティルトン陸軍少佐、R・L・マルコム海軍少佐、P・O・キーニ
〈財政に関する委員会〉F・リゾー陸軍大尉
〈天皇・授権規定に関する委員会〉J・A・ネルソン陸軍中尉、R・A・プール海軍少尉
〈前文〉A・R・ハッシー海軍中佐

 明治天皇の詔命を奉じ、井上毅、金子堅太郎、伊東巳代治を統率して大日本帝国憲法原案を起草した伊藤博文の愛読書は、明治三年に政況および財政調査のためにアメリカを訪問した伊藤に、当時のアメリカ国務長官ハミルトン・フィッシュが贈与したアメリカ合衆国(合州国)憲法のコメンタリー(解釈書)「ザ・フェデラリスト」(一七八八年刊行)であった。伊藤博文は明治三年以来、このアメリカの古典的名著に依拠して憲法を研究し、彼ら四人が帝国憲法原案を起草していた時はもとより、明治二十一年から始まった枢密院帝国憲法制定会議の際にも、伊藤はフェデラリストを常に自分の座右に置いて何か問題が生じる度にこれを繰り返し読み、帝国憲法の制定に尽力したのであった(7)。

 帝国憲法の精緻な権力均衡分立主義と、デモクラシー(大衆参加政治)の弊害から皇室と一般国民を含む国家を救済するための帝国議会二院制は、アメリカ合衆国の立憲議会制デモクラシーの起源であるフェデラリストの著者たち即ちアメリカ合衆国憲法の制定に尽力したジェイムズ・マディソン、ジョン・ジェイ、アレクサンダー・ハミルントンの思想を受け継いだものであった。そして明治二十二年紀元節の帝国憲法発布式が終了した後、金子堅太郎から帝国憲法のコメンタリー「憲法義解」の英訳を贈られたオリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニア(元ハーバード大学教授、金子堅太郎の恩師、マサチューセッツ州の大審院判事)は帝国憲法を次のように評したのである。

 「憲法学の原理ほど各種の法律学中において不定にして且つ不強固なるものはあらざるなり。故に憲法学の地位を称して変遷の時代にありと言う。この見地より日本憲法を観察すれば日本の天皇および之を輔翼せし政治において一時急激に憲法政治の境域に狂奔せず、徐々にその基礎を固め漸次立憲の制度を施行するの目的を定められしは予のもっとも賞賛する所なり。

 また予が日本憲法を熟読するに当たり、天皇及び其の政府において保守主義を以てこの憲法を制定せられたる精神の全篇に充満するを祝賀するものなり。何となれば予は明治四年以来日本人と交わりを結び其の国の将来に向って大いに嘱望するが為に、時々その政治の変遷するを見ては常に日本政府及び其の人民の旧態を破壊し新制を創設するに急激なるを恐れ、其の前途を誤らざるかと憂慮せしが、今やこの憲法を見て明治四年以来の杞憂は全く消散すればなり。

 この憲法は予の観察する所によれば、古来専制の君主権を制限して人民に参政の権利を与えられるものなり。其の之を制限し其の之を付与するに付きこの憲法は明に君主権を制限する箇条を示し、また詳らかに人民に附与せし権限をも明文に記載せり。而して其の不文に属し明瞭に記載せざるものは往古の如く悉く天皇の旧来継承せらるる大権に属するものなりとの主義を採りて起草せられたるが如し。

 又一国の基本法(即ち憲法)を制定するに当ては、先ず狭隘なる区域内において立憲の政治を試み、漸次年月と共に其の区域を拡張するの目的を立つるを以て必要とす。然らば即ちここに一の問題生ず、これ他なし日本国民は此の憲法を以て満足せしや否やにあり。横浜メール新聞の記載する所に拠れば憲法発布の当時より今日に至るまで国民は此の憲法を以て満足したることを認めたり。
 日本憲法は欧州各国の憲法の如く人民の腕力に訴えて創定したるものにあらず。全く天皇の恩賜にして国民も又その恩賜を感拝するを見れば、実に喜悦の情に堪えざるなり(中略)。

 そもそも憲法政治とは一国の政治を処理する機関の配置及び権限を明確にし、之を主管又は執行する軌轍を明示し、その確定したるものは天皇といえども濫りに之を変更することを得ざるの政体を云う。而して其の機関の中において人民もまた政治上に参与するの権限を得たるの政体を云う。然れども其の参政の程度及び権限の広狭は各国古来の歴史習慣等によりて定まるべきものなり、故に甲国においては参政の程度広大にして乙国においては其の区域の狭小なるものあり。これ全く各国の習慣及び歴史より生ずるものなり。これ憲法に付いては一定の原理なき証拠なり。

 然れども其の参政の区域の広狭に拘らず憲法を以て帝王の専横を検束し、人民に参政の権利を与えたる政府なれば之を称して立憲政府と云わざるを得ず。日本憲法はこの理を看破せられたるものと予は断言せんと欲す。又日本憲法は天皇の大権のある部分を拘束して本年よりは日本人民に政治上の生命を与えられ、而してこの政治上の生命は古来いまだかつて存在せざるものなり。この政治上の生命あれば即ち其の政府を称して立憲政府と謂わざるを得ず。日本政府においてこの論理を採用せられたるは予がもっとも感服する所にして、賢明なる政治家の所為と言わざるを得ず。

 この憲法に付き予がもっとも喜ぶ所のものは、日本憲法の根本古来の歴史制度習慣に基づき、而して之を修飾するに欧米の憲法学の論理を適用せられたるにあり。欧米の憲法は欧米国に適するも日本国に適用せず、日本の憲法は日本の歴史制度の習慣より成立せざるを得ざるものなり。故に本年議会開設の後は日本の政治家たる人はこの憲法の精神に基づき、行政上においても古来の法律、習慣を研究し、国家の歴史慣例を標準として漸次欧米の立憲政治の論理を適用せられんことを望む。」

 ザ・フェデラリストに宿るアメリカ合衆国建国の父たちの英知がよく伊藤博文を指導し伊藤らに助言を与え帝国憲法原案の起草を補佐し、後にアメリカ連邦最高裁判所判事を務めアメリカの良心となりジョン・マーシャルに次ぐ偉大な判事という名声を博したホームズが伊藤の憲法義解に満腔の共感を覚え、帝国憲法を絶賛したのである(8)。
 大日本帝国憲法は、ザ・フェデラリストの英知および金子によって邦訳され井上毅によって信奉されたエドマンド・バークの著書フランス革命の省察の英知と、天皇を中心とする日本国の歴史との間に生まれた子であり、比較憲法学の成果にして歴史憲法学の結晶であった。そして近衛文麿および尾崎秀実ら国体の衣を着けた共産主義者たちの度重なる政党破壊工作によって衆議院の全政党が解散に追い込まれ、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)とソ連共産党を模倣した大政翼賛会が出現した戦時下の我が国の国家的危機に際して、帝国憲法は静かにその真価を発揮して大政翼賛会の一党独裁を阻止し、日本の立憲君主制議会制デモクラシーを護り抜き、日本の左翼全体主義化を防いだのである。

 それなのに「自由デモクラシーの尊重」を国是とするはずのアメリカの占領軍は違法不当に日本国の最高法規の地位から帝国憲法を追放した。昭和二十一年(一九四六)二月十三日にGHQ憲法草案の余りに醜悪で拙劣な内容に驚愕した松本丞治国務大臣から議会制デモクラシーに関する平易な講義を聞くまで議会二院制の意義すら知らなかったほど無知蒙昧だったGHQ民政局のニューディーラー(アメリカの容共主義者)が日本の民主化と称して帝国憲法秩序を破壊したのである(9)。これは中国共産党が文化大革命と称して支那歴代王朝の文化遺産を破壊したことと同類の暴挙であった。これを可能とした占領政策の一つが占領軍によって実施され且つ厳重に秘匿された検閲であった。

 占領軍最高司令官のダグラス・マッカーサーは、昭和二十一年の元日に「いまやすべての人が、不当な規制を受けることなく、宗教の自由と表現の権利を享受できる」との声明を出したが、これは真赤な虚偽であり、実態は違った。占領軍は検閲指針として以下の三十項目に関する言論を禁止した。これは大日本帝国の義務であり権利でもあったポツダム宣言第十項「言論、宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は、確立せらるべし」に違反する措置であった。日本国憲法前文には「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあるが、平和愛好諸国民を自称する連合国(10)とその執行機関の占領軍司令部に、ポツダム宣言を誠実に遵守する公正と信義は無かったのである。

(1)SCAP-連合国最高司令官(司令部)に対する批判
(2)極東国際軍事裁判(東京裁判)批判
(3)SCAPが日本国憲法を起草したことに対する批判
(4)検閲制度への言及
(5)合衆国に対する批判
(6)ロシアに対する批判
(7)英国に対する批判
(8)朝鮮人に対する批判
(9)中国に対する批判
(10)他の連合国に対する批判
(11)連合国一般に対する批判
(12)満州における日本人取り扱いについての批判
(13)連合国の戦前の政策に対する批判
(14)第三次世界大戦への言及
(15)ソ連対西側諸国の「冷戦」に関する言及
(16)戦争擁護の宣伝
(17)神国日本の宣伝
(18)軍国主義の宣伝
(19)ナショナリズムの宣伝
(20)大東亜共栄圏の宣伝
(21)その他の宣伝
(22)戦争犯罪人の正当化および擁護
(23)占領軍兵士と日本女性との交渉
(24)闇市の状況
(25)占領軍軍隊に対する批判
(26)飢餓の誇張
(27)暴力と不穏の行動の煽動
(28)虚偽の報道
(29)SCAPまたは地方軍政部に対する不適切な言及
(30)解禁されていない報道の公表

 とくに第21項「その他の宣伝」は酷く、占領軍の検閲対象はまさに縦横無尽、伸縮自在の無制限であった。一九四一年十二月十八日、アメリカ連邦議会は、第一次戦時大権法を成立させ、ルーズベルト大統領に、検閲の実施を含む戦争遂行上必要な大幅な権限を与えた。翌日ルーズベルトはこの戦時立法を根拠として合衆国検閲局の設置を定めた大統領令八九八五号に署名した。これによれば、検閲局長官は、郵便、電信、ラジオその他の検閲に関して、全く随意に職務を執行し得るものとされた。   

 奇しくも同日は日本において帝国議会によって可決された戦時立法である言論出版集会結社等臨時取締法の公布日であった。この法律の罰則は最高刑懲役二年に過ぎなかったのに対して、アメリカの第一次戦時大権法第三百三項が規定した検閲違反者に対する罰則は、最高刑罰金一万ドルまたは禁固十年、あるいは双方であった。アメリカは日本よりも峻厳な戦時立法を行っており、占領軍は、アメリカ国内では一九四五年九月二十八日に大統領令九六三一号によって打ち切られたアメリカ政府の随意検閲を、既に戦時統制を解除し言論の自由を復活させていた大日本帝国に導入したのである。

 占領軍は、新聞書籍を検閲しただけでなく、日本人の膨大な私信から十通に一通を無差別に抽出し、日本人の動向を探っていた。占領軍に雇われた日本人または日系二世の検閲官がこれを検閲し、検閲要項に抵触するものは片っ端から翻訳、危険人物と思われる者は占領軍によってブラック・リストに載せられ、あるいは逮捕され、場合によっては手紙そのものが没収された。

 これは言論および思想の自由を謳ったポツダム宣言に違反する措置であり、占領軍自身の手に成る新憲法にも抵触するような検閲が、日本国憲法公布後もなお数年間にわたって実施されていたのである。然も一九四八年七月二十六日には占領軍の検閲は事前検閲からより陰湿な事後検閲へ移行し、それはサンフランシスコ講和条約の発効日まで続いたのである(11)。

(1)三田村【戦争と共産主義】一五三頁。
(2)【萱野長知孫文関係資料集】三五七頁。神尾【香港日記】昭和十四年十月二十五日の条。
(3)【小川平吉関係文書2】六六〇頁「昭和十四年十月一日小川平吉宛萱野長知(在香港)電報」
(4)【萱野長知孫文関係資料集】二六五頁。
(5)官報号外昭和二十年九月六日衆議院議事速記録第二号 国務大臣稔彦王殿下の演説。
(6)関野通夫【日本人を狂わせた洗脳工作いまなお続く占領軍の心理作戦】参照。
(7)瀧井一博編【伊藤博文演説集】八〇~八三頁。金子【憲法制定と欧米人の評論】六四~六六頁。
 アメリカの占領軍が日本国を民主化したと戦後民主主義教育によって信じ込まされてきた戦後生まれの日本人にとって皮肉な事に、人民の能力への不信感を率直に表明し、立法機関を厳重に制限し直接民主制を否定しなければならないことを力説するザ・フェデラリストの第四七篇「権力分立制の意味」、第四八篇「立法部による権力侵害の危険性」、第四九篇「権力簒奪防止策」、第五一篇「抑制均衡の理論」、第六二篇「上院の構成」、第六三篇「上院の任期」、第七八篇「司法部の機能と判事の任期」が伊藤博文の憲法義解への理解と尊敬を深め、非公選の貴族院と皇室の自治を欠く日本国憲法の数々の欠陥を教えてくれるのである。
(8)金子【憲法制定と欧米人の評論】三三四~三四一頁。井上孚麿【現憲法無効論-憲法恢弘の法理】一五三~一五四頁。
(9)伊藤博文の憲法義解第三十三条は議会二院制の意義を次のように簡潔に解説している(カッコ内の英語とその日本語訳は伊東巳代治の英訳憲法義解を用いた筆者の註釈)。

 「二院の制は欧州各国の既に久しく因襲する所にして、その功績を史乗に徴験し、而してこれに反するの一院制を取れる者は皆その流禍(the evil effects、悪影響、弊害)を免れざることを証明したり(仏国千七百九十一年および千八百四十八年・西班牙千八百十二年憲法)。近来二院制の祖国においてその社会の淹滞障碍たるの説を為す者あり。そもそも二院の利を主持する者既に熟套の論ありて今ここに引挙するを必要とせざるべし。但し、貴族院の設は以て王室の屏翰(bulwark for the Imperial house、皇室のための防護者、防波堤)を為し、保守の分子を貯存するに止まるに非ず。蓋し立国の機関において固よりその必要を見る者なり。
 何となれば凡そ高尚なる有機物の組織は独り各種の元素を抱合して以て成体を為すのみならず、又必ず各種の機器に倚て以て中心を輔翼せざるはあらず。両目各々その位を殊にせざれば以て視力の角点を得べからず。両耳各々その方を異にせざれば以て聴官の偏聾を免るべからず。故に元首は一ならざるべからず。而して衆庶の意思を集むるの機関は両個の一を欠くべからざること、あたかも両輪のその一を失うべからざるが如し。
 それ代議の制は以て公議(public deliberations、公開討議)の結果を収めむとするなり。而して勢力を一院に集め、一時感情の反射と一方の偏向とに任じて互相牽制その平衡を持する者なからしめば、だれかその傾流奔注の勢(that House in the intemperance of biased excitement 、偏った興奮の過激さの中にある一院)容易に範防(the limits of propriety、妥当性、正当性の限界)を踰越し、一変して多数圧政(despotism of the majority、多数派の独裁、専制)となり、再変して横議乱政(anarchy、 無政府、無法律状態)とならざることを保証する者あらむや。これその弊は却て代議の制なき日よりなお甚だしきものあらむとす。故に代議の制設けざれば已む。之を設けて二院ならざれば必ず偏重を招くことを免れず。
 これすなわち物理の自然に原由する者にして、一時の情況を以て之を掩蔽すべきに非ざるなり。要するに、二院の制の代議法におけるは、之を学理に照し、之を事実に徴して、その不易の機関たることを結論すべきことを得べきなり。かの或国における貴族院の懶庸にして議事延滞の弊を論ずるが如きは、これ一時の短を摘発するに過ぎず。而して国家の長計に対してその言の価値あるを見ざるなり。」

 昭和二十一年二月十三日外相官邸において、GHQ民政局長ホイットニー准将一行からマッカーサー占領軍憲法草案を手渡された松本丞治国務大臣は、余りに拙劣な草案の内容に驚き、たまらず彼らに質問した。松本は「念のために伺っておくが、提案では一院制をとっておられるが、これはどういうことでしょう」と尋ねると、ホイットニーは「日本には米国のように州というものがない。従って上院を認める必要はない。一院の方がシンプルではないか」と答えた。松本はその理由が余りにシンプルなことに再び驚き、「彼らはどうも議会制度というものを知らないようだ」と思い、そこで二院制の存在理由であるチェック・アンド・バランスの意義を手短かに講義すると、ホイットニー准将一行四人は顔を見合わせて「ナルホド」という様な顔をした。松本は三度驚き「こういう人の作った憲法だったら大変だ」と戦慄した(憲法はかくして作られた五四~五五頁)。

(10)小堀【東京裁判日本の弁明】一七~一八頁。東京裁判検察起訴状が、大東亜戦争において日本と交戦した連合国を平和愛好諸国民、平和的諸国家と呼称し、連合国憲章(一九四五年六月二十六日署名、同年十月二十四日発効。日本では国連憲章と誤訳されている)第四条が、連合国加盟条件として「平和愛好」を掲げていることが示すように、日本国憲法前文にある「平和を愛する諸国民」とは連合国を指している(筒井若水【国連体制と自衛権】二三頁)。
(11) 甲斐弦【GHQ検閲官】一一九~一二〇頁。江藤淳【閉ざされた言語空間-占領軍の検閲と戦後日本】参照。アメリカ軍第三民間検閲局(CCD)に勤務した甲斐弦は、上司から「憲法への反響には特に注意せよ」と指示されていたが、検閲官として甲斐が読んだ手紙の八割から九割までが悲惨きわまる内容を綴るものであったが、新憲法を歓迎する手紙は無かったという。


98、戦後民主主義の本質

 それから二十三年後の昭和五十年(一九七五)、高宗武と共に萱野長知の和平工作を妨害して汪兆銘工作を推進し、支那事変を永久抗争化させた張本人の一人である松本重治は「上海時代-ジャーナリストの回想」なる回想録を発表し、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。松本は上海時代下巻のあとがき三一八頁で、

 「私がこの上海時代を二年半がかりで書きつづけてきたのは、ある意味では、遺言を書くような気持であったということである。そしてその遺言の趣旨は、日本人はもっと中国人の気持をもっとよく理解して欲しいという一言に尽きる。約四十年前のことどもについての私の回想録は、東亜の一大悲劇たる日中戦争が惹き起こされた最大の原因が、当時の日本人の多くが、中国人の気持を理解し得なかったことにあることを、私なりに書きたかったのである。今日の私は、自らをオールド・リベラルと信じているが、個人の人格を尊厳視し、言論の自由を尊重し、平和を愛し、他の人々の思想行動に対して寛容であるという立場は、四十年以前の当時と、今日とで変わっていないつもりである」

と嘯き、平成元年(一九八九)、八十九歳でこの世を去り、天寿を全うしたのである…。

 レーニンの著書「国家と革命」によれば、国家は特殊な権力組織であり、ある階級を抑圧するための暴力組織であり、当然あらゆる国家は非自由であるという。そして資本家階級が労働者階級を抑圧する資本主義国家が労働者階級が資本家階級を抑圧する社会主義国家へ移行し、労働者階級の独裁があらゆる生産手段を国有化し、資本家階級の反抗を打ち砕き、終局的に資本家が消滅し、階級がなくなったら即ち社会的生産手段に対する関係から見て、社会の構成員の間に差別がなくなった共産主義社会で初めて、抑圧する対象を喪失した国家は自らの存在意義をも喪失して死滅し、人間は自由について語り得るようになるというのである。ソ連のレーニン・スターリンによる大粛清は、レーニンの国家観から必然的に発生した人道に対する犯罪であった。

 そしてレーニンが繰り返し力説した革命理論は、資本主義国家から社会主義国家への移行は暴力革命によらなければいけないということであり、レーニンは世界各国の共産主義者に対し、官僚組織、政党、議会、警察、常備軍などブルジョア国家機構の完全破壊を命じたのである。だからこそコミンテルンの誕生後、資本主義国家の共産主義者は、社会改良主義者や祖国防衛のための愛国心を涵養する教育の必要性を訴える愛国主義者と非妥協的に戦い、青少年に対し祖国の前途に対する希望の燈を奪い、祖国蔑視、祖国呪詛の精神を扶植しようとするのである。これは、それだけ確実また急速にブルジョア社会を覆すためである(1)。昭和二十七年(一九五二)、日本共産党の志賀義雄は、

 「何も武装闘争などする必要はない。共産党が作った教科書で、社会主義革命を信奉する日教組の教師が、みっちり反日教育を施せば、三、四十年後にはその青少年が日本の支配者となり指導者となる。教育で共産革命は達成できる」

と予言した(2)。昭和天皇の御聖断と全国御巡幸(昭和二十一~二十九年)によって敗戦革命の夢を打ち砕かれた我が国の共産主義勢力は、将来の共産革命を準備するために今度は教育界に深く根を下したのである。

 この年我が国では、日本弁護士連合会が口火を切り、六月七日、「戦犯の赦免勧告に関する意見書」を政府に伝えた。これが契機となり、戦犯釈放運動は瞬く間に全国規模の一大国民運動に発展し、各種の団体や地方自治体は、政府に、サンフランシスコ講和条約第十一条に基づいて関係各国に対して赦免勧告を行うように続々と要請した。署名運動も急速に広がり、戦犯の赦免を求める署名数は、地方自治体が集めたもの約二千万、各種団体が集めたもの約二千万、合計約四千万に達し、また各国代表部や国会、政府、政党に対する陳情も夥しい数に上った。

 こうした国民世論に後押しされた日本政府は、十月十一日、立太子礼を機会に日本の国内外に抑留されている全ての日本人戦犯の赦免減刑を関係各国に要請した。続いて我が国の衆議院は政府を支援すべく、昭和二十七年十二月九日、講和条約第十一条に基づき以下の「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」(自由党、改進党、両社会党、無所属倶楽部の共同提案、田子一民ほか五十八名提出)を可決した(3)。

 「独立後すでに半歳、しかも戦争による受刑者として内外に拘禁中の者はなお相当の数に上り、国民の感情に堪え難いものがあり、国際友好の上より遺憾とするところである。よつて衆議院は、国民の期待に副い家族縁者の悲願を察し、フイリツピンにおいて死刑の宣告を受けた者の助命、同国及びオーストラリア等海外において拘禁中の者の内地送還について関係国の諒解を得るとともに、内地において拘禁中の者の赦免、減刑及び仮出獄の実施を促進するため、まずB級及びC級の戦争犯罪による受刑者に関し政府の適切且つ急速な措置を要望する。右決議する。」

 サンフランシスコ講和条約第十一条は、アムネスティ(国際法上の大赦)の対日不適用条項であり、戦犯に対して講和条約発効後の日本政府による刑罰の執行と連合国関係国政府および日本政府による赦免に関する手続を定めた条項である。

 「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の判決(英語ではthe judgements、スペイン語ではlas sentencias、日本語訳文では裁判と誤訳されている)を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。
 極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。」(講和条約第十一条)

 国際法上の大赦とは、講和条約の法的効果の一つであり、「戦争中に一方の交戦国の側に立って交戦法規違反行為を犯した全ての者に、他方の交戦国が責任の免除を認める」効果を持つ。つまり講和条約の締結と発効は、国際法上の戦争状態を終了させるだけでなく、同時に戦時中の交戦国の軍事行動である軍事裁判の判決をも失効させ、すべての戦争犯罪人を免責するのである。

 国際法史上有名なアムネスティ条項は、三十年戦争を終結させた一六四八年のウェストファリア平和条約第二条である。そこには、戦乱が始まって以来、言葉、記述、暴虐、暴行、敵対行動、毀損、失費のかたちで行われたすべてのものにつき、「交戦諸国相互間で、永久の忘却、大赦ないし免罪があるべきものとする」と規定されている。

 このように、全てを水に流す「全面的忘却」の精神に基づくアムネスティ条項は、戦争によって煽動された国家間の憎悪を鎮め平和を回復するために必要とされ、十七世紀から十九世紀中に締結された数多くの講和条約の中に盛り込まれ、一九一八年三月三日のドイツ・ソ連条約の二十三~二十七条や、同年五月七日のドイツ・ルーマニア条約の三十一~三十三条も一般的アムネスティ条項を構成している。

 以上の諸国家の慣行に基づき、第二次世界大戦前には、アムネスティ条項が講和条約中に無くとも、講和条約の発効それ自体がアムネスティ効果を持つに至った。そのことが国際条約(明示の合意)と共に国際法を構成する国際慣習法(黙示の合意)として確立したのである。国際慣習法とは国際社会に生まれた慣習にして、複数の文明諸国家によって、彼らの正しいとの信念の下に繰り返し行われ、遵守すべき規範(ルール)として確信されるに至った慣習である。

 従って本来ならば、一九五二年四月二十八日サンフランシスコ講和条約が発効した時点で、日本政府は所謂A級戦犯を裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判)およびアジア太平洋地域の各地で開廷されたBC級戦犯裁判の判決の失効を宣言し、日本国内で服役している日本人戦犯を直ちに釈放し、且つ、外国で拘禁されている日本人戦犯の即時釈放を連合国に要求する国際法上の権利を有し、連合国はこれを承認する義務を有していたのである。

 しかし講和条約第十一条はこの権利を日本国に認めず、逆に我が国に対して、講和条約の発効後も、連合国が赦免するまで、日本国内で拘禁されている日本人戦犯に対する刑の執行の継続を義務づけたのである。その結果として講和条約が発効し、我が国が独立を回復した後においても、巣鴨、モンテンルパ(フィリピン)、マヌス島(オーストラリア)で千二百二十四名もの日本人および戦時中日本国籍を有していた朝鮮人および台湾人が戦犯として拘禁され続けていた。

 要するに、サンフランシスコ講和条約第十一条は、連合国が日本政府による日本人戦犯に対する刑の執行の停止を阻止するために同条約に盛り込んだ条項に過ぎず、極東国際軍事裁判を合法かつ正当な裁判として、所謂東京裁判史観を唯一絶対の真実として、我が国に認めさせるものではなかった(3)。

 だから衆議院において「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」を提案した自由党、改進党、両社会党の各議員は、同時に決議の趣旨説明として、パル判決やこれを全面的に支持するイギリスの国際法家ハンキー卿の著書「戦犯裁判の錯誤」を援用し正々堂々と極東国際軍事裁判を糾弾する国会演説を行ったのである。その中でも特に第二十二回帝国議会衆議院総選挙(一九四六年四月十日実施、帝国憲法下の日本で初めて女性に参政権を認めた普通選挙)で当選した三十九名の女性代議士の一人である山下春江議員(一九〇一年生まれ)が行った以下の痛烈な演説は、WGIPとその中核である極東国際軍事裁判の実態を余すところなく指摘した(4)。

 「私は、改進党を代表いたしまして、ただいま上程されました戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議案に対しまして賛成の意見を申し述べたいと存じます。(拍手)
 先ほど趣旨弁明の言葉の中にもございました通り、かつての極東裁判の判事であり、しかも日本の無罪を主張いたしましたインドのパール博士は、去る十一月十一日に、巣鴨の拘置所において、戦犯に対して、あくまでも正義を主張してやまない人間の真実の叫びとして、大要左のようなあいさつをされたのであります。

 『すべて、裁判官の真諦は、人間の心の中に法の公正さに対する信頼感をもたらすことにある。その意味で、今次戦争最大の損失、最大の災害は、法的正義に対する信頼感の破壊にあつた。法律家の中には、連合国のつくつた法は、敗者である皆さんのみを対象としたものであつて、彼ら自身もしくは一般人類に適用されないものであるということを告白している。もしそれが真実ならば、そこに生れたものは法律ではなく、そこに成り立つたものは正義ではない。ここにおられる皆さんは可能なる最悪の不公正の犠牲者である。英国において上層部の間に論争が行われている。そのうちのある者は、戦犯條例によつて定められた法は、ドイツ人を、あるいは日本人を対象とした法であつて、一般社会に適用されるべきものでないことを認めている。連合国は一体どこから権利を得てこれらの法律をつくり、それを適用し、それによつて判決を下し得たのであろうか。』

というあいさつをされておるのであります。
 
 占領中、戦犯裁判の実相は、ことさらに隠蔽されましてその真相を報道したり、あるいはこれを批判することは、かたく禁ぜられて参りました。当時報道されましたものは、裁判がいかに公平に行われ、戦争犯罪者はいかに正義人道に反した不運残虐の徒であり、正義人道の敵として憎むべきものであるかという、一方的の宣伝のみでございました。また外地におきまする戦犯裁判の模様などは、ほとんど内地には伝えられておりませんでした。国民の敗戦による虚脱状態に乗じまして、その宣伝は巧妙をきわめたものでありまして、今でも一部国民の中には、その宣伝から抜け切れないで、何だか戦犯者に対して割切れない気持を抱いている者が決して少くないのであります。
 
 戦犯裁判は、正義と人道の名において、今回初めて行われたものであります。しかもそれは、勝つた者が負けた者をさばくという一方的な裁判として行われたのであります。(拍手)戦犯裁判の従来の国際法の諸原則に反して、しかもフランス革命以来人権保障の根本的要件であり、現在文明諸国の基本的刑法原理である罪刑法定主義を無視いたしまして、犯罪を事後において規定し、その上、勝者が敗者に対して一方的にこれを裁判したということは、たといそれが公正なる裁判であつたといたしましても、それは文明の逆転であり、法律の権威を失墜せしめた、ぬぐうべからざる文明の汚辱であると申さなければならないのであります。(拍手)

 その一、二の例をあげますと、事件の内容で、有罪項目が自分の行為ではなく、まつたく虚構であつたか、あるいは捏造された者、人違いであつた者、あるいは部下または上官の行為の責任をとらされた者などが非常に多く、さらにまた、事件発生の部隊または地域にたまたまおつたというとによつて添えを食つた者、さらにはなはだしきは、日本人なるがゆえに、他に何らの理由もなく処罰された者などがあるありさまでありまして、自己の行為と多少のつながりがあるといたしましても、著しく事実を誇張し、またはゆがめられたものが圧倒的に多かつたのであります。

 また、裁判の審理が一方的で、公判廷において被告に十分の陳述を許されず、証拠も物的証拠はなく、ほとんどが人的証拠、すなわち証人の証言によるものでありましたが、その証人も多くは公判廷に出席せず、検事のつくつた宣誓口述書を単に読み上げるものが多かつたようでございます。それは、もし証人を出席させますと、被告人と対決することにより、証人の偽つた証言が暴露されることをおそれたからでございましよう(以下省略)。」

 極東国際軍事裁判の検察側立証段階で、宣誓供述書、陳述書、訊問調書、手記、日記等、ある特定の個人が書き、或いはその述べたことを文書にしたもので、証拠として法廷に受理されたものは九百八十三通あった。その内、その文書作成者が証人として出廷し宣誓の上、その文書内容が真実である旨証言して証拠として受理されたものは二百六十八通、残りの七百十五通は、ただ文書だけが提出され、証拠として受理されたものであった。

 この内、日本軍の俘虜虐待等戦争法規違反を立証するものとして提出されたものは、南京事件関係を含め、合計六百通であったが、その内、陳述者が証人として出廷、宣誓証言の上証拠として受理されたものは僅か三十通(5%)に過ぎず、残りの五百七十通(95%)は、肝心の陳述者の出廷を伴わない単なる文書であったにもかかわらず、証拠として受理された。つまり検察側によって提出された証拠の大部分は、法廷に現れず反対尋問を受けなかった人々から採った陳述すなわち伝聞だったのである。しかも裁判所条例の中には「偽証罪」の規定がなかったため、単に供述書、陳述書のみの提出者は、その中にいかに事実を偏向し、歪曲して書き、極端な場合には、全く虚偽の記述をしても、弁護人の反対尋問によってそのことが暴かれてしまうことを心配する必要もなく、その結果「偽証」の罪に問われることもない状態で、その供述書、陳述書を書くことができた(5)。

 裁判所は、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーが制定した極東国際軍事裁判所条例中の以下の規定により、「関連性なし」「証拠能力なし」「重要性なし」「セルフ・サービング」という理由をつけて、検察側の主張に反論するために被告弁護側が用意した膨大な証拠資料を却下し、そのうち特に重要な証拠資料を未提出に終わらせたばかりか、法廷において検察側の陳述者へその陳述内容の真偽を問い質すための反対尋問を行う機会の大半を被告弁護側から剥奪していたのである(6)。

<極東国際軍事裁判所条例抜粋>

第十三条
(イ)本裁判所は証拠に関する専門技術的法則に拘束せらるることなし。
(ロ)本裁判所は証拠の関連性の有無を判定するため、証拠の提出前、証拠の性質につき説明を徴することを得。
(ニ)本裁判所は公知の事実、またはいずれかの国家の公文書および報告書の真実性もしくはいずれかの連合国の軍事機関またはその他の機関の作成にかかる調書、記録および判定書の真実性についてはその立証を要求せざるものとす。

第十五条
(二)検察官および弁護人は証拠の提出をなすことを得べく、裁判所は右証拠の受理いかんにつき決定すべし。  

 我が日本国は、朝野を挙げ断固として極東国際軍事裁判を始め連合軍が戦時中に行った対日軍事裁判の正当性を否定し、講和条約の発効後も戦犯として拘禁中の日本国民および彼らの家族を救済し、連合軍に戦犯という濡れ衣を着せられた彼らの名誉を回復する。これが一九五二年の日本の国家的意志であり、当時の我が国は経済的に困窮し、軍事的に極めて弱体であったにも拘わらず、この決意を実行に移して、国際社会から非難されることなく、一九五六年十二月十八日に連合国(United Nations、いわゆる国連)に加盟したのである。

 ところが占領軍のWGIPと、これを相続し強化する日教組の反日教育および朝日新聞社の反日報道とによって洗脳され反日的日本人の群れと化した敗戦後世代のエリートたちが政界官界報道界の上層部を占めるようになった昭和時代の後半以降、歴代の日本政府が共産中国と南北朝鮮の反日的恫喝と強請に屈服して彼等に媚び諂い謝罪朝貢外交を繰り返したあげく、朝日新聞社ら反日の革新勢力によって捏造された「従軍慰安婦強制連行説」を始め、日本軍に被せられた冤罪を事実として認めてしまった結果、インドネシアの対オランダ独立戦争に加わったインドネシア残留元日本軍将兵ですらも現地の民衆から卑劣な侵略戦争の手先と非難され、彼等の子孫は侵略者の末裔として迫害されるようになった事例があるという…。
 これほど救い難い残酷な悲劇は世界に類例を見ないであろう。日本のために、インドネシアのために、身命を賭して戦った日本人が日本政府によって名誉を剥奪され、インドネシア人によって非難されながら人生を終えねばならなくなってしまった。

 日本政府は、日本民族を野蛮人に貶め「華夷秩序」を実現せんとする共産中国と南北朝鮮の歓心を買う為に、愚劣にも自ら率先して、日本国民である日本軍将兵の名誉と尊厳を売り、世界中に無知と偏見と誤解に基づく反日感情運動を蔓延させ、再び世界各国による対日包囲網を作り出しているのである。

 第二次世界大戦後の我が国では、ソ連と尾崎秀実に協力して我が国を敗北へ導いた反日の革新(左翼)勢力が報道と教育とを牛耳り、反戦平和主義者と正義道徳の守護者を騙って一般国民を欺き、マルクス・レーニン主義を信奉礼賛してソ連共産党、中国共産党、北朝鮮労働党の利益拡大に奉仕し、また彼等の謀略活動によって命を奪われた我が帝国陸海軍将兵とその御遺族、そして我が国我が民族の歴史に対し、誹謗中傷侮辱の限りを尽くしている。

 反日の革新(左翼)勢力は、事あるごとに日本国の政府と国民に向って「アドルフ・ヒトラーのナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)を否定する戦後ドイツを見習い、過去の誤ちを反省し謝罪せよ!」という趣旨の説教を繰り返しながら、社会主義(共産主義)を信奉して、偏狭なナショナリズムをまといジェノサイドをほしいままにした社会主義独裁政党のソ連共産党や中国共産党や北朝鮮労働党を礼賛し、社会主義を信奉しながら、ソ連の統制経済一党独裁を模倣した国家総動員法と近衛新体制(大政翼賛会)に象徴される我が国の戦時体制を「軍国主義、ファシズム、超国家主義、全体主義」といって非難し、ソ連を模倣した日本の一九四〇年戦時体制を非難しながら、尾崎秀実と一緒にこれを作り上げた細川嘉六、堀江邑一、風早八十二、西園寺公一(戦後共産党)、風見章、勝間田清一(戦後社会党)、笠信太郎(戦後朝日新聞)、宗像誠也(戦後東大教授、日教組講師団の一人)といった近衛文麿の政治幕僚たちを平然と自分達の首脳幹部に戴き、ポツダム宣言に基づきGHQないし日本政府によって断罪されるべきであった近衛の革新幕僚を首脳幹部に戴きながら、日本国の政府と国民に向って「アドルフ・ヒトラーのナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)を否定する戦後ドイツを見習い、過去の誤ちを反省し謝罪せよ!」という趣旨の説教を繰り返す、無限のルーピー(loopy、左巻き)である。

 チベットの独立を求め蜂起したチベット人が中共人民解放軍によって大虐殺され、チベットの法王ダライ・ラマ十四世と法王を慕う民衆八万人がインドへの亡命を余儀なくされたチベット動乱(一九五九年三月)から五年七ヶ月後、すなわち東京オリンピックの閉会式から三日後の一九六四年十月二十七日、中国共産党は核ミサイルの発射実験を行い、二十キロトンの核弾頭が新疆ウイグル自治区ロプノールの標的上空で爆発し、周辺住民の頭上に死の灰を降らせた。これ以降ロプノール地域で中国共産党によって実施された四十五回もの核実験は、同自治区に居住するウイグル人を中心に広島原爆被害の推定四倍以上の被害者を生み出した。しかし日教組の結成に尽力した日本共産党議員の岩間正男は、大躍進政策により発生した大飢饉が無数の中国人民を餓死させている最中に中国共産党が行った核実験の成功に対し、昭和三十九年(一九六四)十月三十日の参議院予算委員会において次のように言い放ったのである(7)。

 「このたびの核実験によって少なくとも次のような大きな変化が起こっております。これは私の一つの把握をもってしてもこれだけのことは言える。まず第一に、世界の核保有国が五カ国となった。ことに世界の四分の一の人口を持つ社会主義中国が核保有国になったことは、世界平和のために大きな力となっている。
 元来、社会主義国の核保有は帝国主義国のそれとは根本的にその性格を異にし、常に戦争に対する平和の力として大きく作用しているのであります。」

 東京日日新聞カメラマンとして昭和十二年十二月の南京攻防戦を取材した佐藤振寿は次のように回顧し、中国共産党の対日情報工作に加担する戦後の朝日新聞社を非難した(8)。

 「十三日に、中山門から城内に入りました。その日は中山門で写真を撮りましたが、南京陥落という写真をもっと欲しいと思い、翌十四日には国民政府だった建物があるというので、そこで写真を撮りました。これが特ダネとなり、号外になったんです。
 もうこの日は、難民区の近くの通りでラーメン屋が開いていて、日本兵が十銭払って、食べていました。それと、中国人の略奪が続いて、中山路で机を運んでいる中国人や、店の戸をこじ開け盗んでいる者もいました。
 十六日は、中山路で難民区から摘出された便衣兵の写真を撮っています。中山路いっぱいになりましたが、頭が坊主の者、ひたいに帽子の跡があって陽に焼けている者とか、はっきり兵士と分かる者を摘出していました。でも髪の長い中国人は、市民とみなされていました。たくさんの中国人が、日の丸の腕章をつけて、日本兵のところへ集まっていましたから、とても残虐行為があったとは信じられません。もちろん、社の人たちからも、そんな話は聞いていません。

 日本兵の屍体は、撮ってはいけないと言われていましたが、私は何でも撮りました。でも後になって見ても、日本兵が残虐なことをやっている写真なんか一枚もありません。この中には、日本兵が慰問袋を中国人にわけてやってるのがありますが、たくさんの中国人が群がっている、そんなものもあります。こういう状態ですから、虐殺なんていうことは、私がたまたま見ていないというのではなく、なかったのだと思っています。(中略)

 とにかく、陥落から、二十四日まで南京にいましたが、南京事件なんていうのは、戦後聞いた話で、確か二十一年か二十二年ごろだったと思います。NHKの真相箱という番組があって、ここで南京で虐殺があったと聞いたのが、初めてです。たまたま聞いてましてね。テーマ音楽に、チャイコスフキーの交響曲が流れて、その後で、機関銃の音や、『キャー』と叫ぶ市民の声があって、ナレーターが『南京で虐殺がありました』って言うんですよ。吃驚しましたね。これを聞いて、『嘘つけ』と、私はまわりの人に思わず言った記憶があります。

 十年ほど前にも、朝日新聞が『中国の旅』という連載で、南京で虐殺があったと、中国人の話を掲載していましたが、そのころ日本には、当時南京にいた人がたくさんいるわけです。それなのに、

 『何故日本人に聞かないで、彼らに都合のいい嘘ばかりのせるのか。』

 そう思いました。当時南京にいた人は、誰もあんな話は信じないでしょう。それ以来、私は自宅で朝日を購読するのを止めましてね、その時、配達員に、

 『朝日は嘘を書くから、とるのを止める。』

って、言いました。
 よくあることですが、被害者は誇張して被害を語るものです。ことに南京陥落のころには、朝日記者やカメラマンが大勢いました。そうした人たちの証言ものせずに、一方的な被害記事に終始していたのでは、信頼性ある記事にはなりません。」

 橋本登美三郎(朝日新聞社上海支局次長)をはじめ南京攻防戦と陥落直後の南京市内を直接取材した朝日記者たちは明確に南京虐殺事件の存在を否定し、また事件の虚構性を証明する多数の現場写真を遺している(9)。そして彼らの証言と写真は、一九三九年に中華民国重慶政府の公式見解として外交部元顧問の徐淑希によって編纂刊行された「南京安全地帯の記録」の内容と完全に一致する。この安全地帯の記録は次の文書から始まる(10)。

 「私どもは貴砲兵部隊が安全地帯に砲撃を加えなかった立派な遣り方に感謝し、安全地帯の中国人一般市民の保護に関する今後の方策について貴下との接触を確立するために、この手紙をお送りしております。」(第一号南京日本軍司令官への手紙1937年12月14日付、執筆者は南京安全地帯国際委員会ジョン・ラーベ委員長)

 一九三七年十二月の日中攻防戦における南京は、一九〇七年ハーグ陸戦条約第二十五条の「防守」(敵軍の占領企図に対する抵抗)を形成しており、防守都市に対する無差別の砲爆撃は軍事目標主義の例外として当時適法であった(11)にもかかわらず、我が日本軍は南京に無差別砲爆撃を行わなかった。中華民国軍は、安全地帯の三ヶ所に塹壕を掘り、高射砲台を配置し、安全地帯を中国軍将兵の退避地帯として軍事利用していたにもかかわらず、我が軍は安全地帯を砲撃することなく、国際委員会によって安全地帯に集められていた約二十万人の避難民を保護し、朝日の南京特派員はその場面を多数の写真に収めていたのである。 

 しかし戦後の朝日新聞社はそれらの証拠写真を日本国内外に周知せず、日本軍将兵の冤罪を晴らさないばかりか、一九七一年から日中国交回復宣伝活動の一環として中国共産党の恐怖政治(文化大革命)によって支配されている不自由な中国人民の反日証言を未検証のまま延々と紙面に掲載したのである。彼らが詳述した日本軍の残虐行為は、通州事件において支那人が幼児や妊婦を含む邦人居留民を虐殺した残酷な方法であり、支那大陸伝統の嗜虐殺戮風習そのものであって、中国人民の反日証言はそれらを日本軍将兵や南満鉱業社員といった戦前世代の日本人に擦り付けるものであった。
 この「中国の旅」と題する朝日の反日報道が我が国の世論および国民心理と歴史教育に及ぼした悪影響は、深刻かつ甚大で、戦史や軍事に疎い戦後世代の日本国民に、日本軍および日本民族に対する憎悪感と侮蔑感、中華人民共和国に対する罪悪感と贖罪感、そして日本軍将兵の子孫であり日本民族の一員である自分たち日本人に対する不信感あるいは絶望感を扶植し、読者の間に元日本軍将兵や元南満鉱業社員等に対する凄まじい誹謗中傷を巻き起こしたのである。

 それから約十年後の昭和五十七年(一九八二)夏、朝日新聞社ら大新聞の虚偽報道によって引き起こされた教科書検定侵略進出書き換え事件は反日教育を更に激甚化させてしまった。それまで教科書会社が教科書の採択に巨大な影響力を持つ日教組に迎合してマルクス・レーニン主義、コミンテルン三十二年テーゼ、東京裁判史観等に依拠する歴史教科書原案を教科書検定に申請してきた際に、文部省の教科書検定官は教科書原案の反日虚偽記述を修正し、また文部省は、日教組に支援された教科書検定違憲訴訟(いわゆる家永裁判)に勝利し、歴史教科書の正常化まで後一歩という所まで漕ぎ付けていた。
 しかしこの事件によって煽動された中韓両国政府の猛烈な対日非難に恐れおののいた鈴木善幸や宮沢喜一ら当時の自民党政権は我が国の歴史教科書を中韓両国政府の検閲下に入れ、教科書検定基準として近隣諸国条項を設定してしまい、我が国の教科書検定は機能不全に陥り、サンフランシスコ講和条約の発効年から約三十年に及ぶ文部省の歴史教育正常化の努力はことごとく水泡に帰してしまった。教科書検定官が南京大虐殺や創氏改名日本名強制説といった虚偽記述に修正意見を付ければ、必ずそれを聞き付ける中韓両国政府の猛抗議を受け、近隣諸国条項に従い、修正を中止せざるを得ないからである。ここに我が国は中韓両国政府の内政干渉に屈服し、再び歴史教育に関する国家主権を喪失してしまった。

 一九八二年八月二十二日のテレビ番組「竹村健一世相を斬る」に出演した渡部昇一教授は、華北侵略を進出に換えたという教科書がただの一点もなく、新聞が虚偽報道を行っていることを暴露し、他の出演者と視聴者を驚愕させた。続いて渡部教授は「教科書問題・大新聞の犯罪」(諸君昭和五十七年十一月号)という論文を発表し、これに反論してきた朝日新聞本社社会部長の中川昇三に対して、「朝日新聞への公開質問十四ヵ条」(諸君昭和五十八年一月号)を提示した(12)。以下はそのうちの三つである。

 「(前略)いずれにせよ、『朝日新聞』は当初の誤報を正当化するテを打ちはじめた。それは八月十一日付夕刊に、指導要領に「進出」がはじまっていたのが二十年前からであるという記事を出した。「大スジ論」を『朝日新聞』が公式に打ち出しはじめた第一歩である。
 その前日の八月十日付「天声人語」には参議院文教員会での政府答弁を引用しているのだから、「侵略→進出」に対する肖向前氏の抗議の誤りは、少なくとも天声人語子には明らかだったはずである。というのは七月三十日の文教委員会で小川文相は「侵略を進出に換えた例はない」と明言しているからである(中略)。
 本当はそのままで全く訂正記事を出さずに済ましたかったらしい。しかし八月二十二日のテレビで、「侵略→進出」の例はないことが放送された上に、『週刊朝日』が掲載した詐術としか言えない一覧表まで、画面に出されてしまった。
 この一覧表というのは、『週刊朝日』(八月十三日号、二〇ページ)が、「検定でこう変わった日中・日韓関係史」として掲げたもので「検定前」と「検定後」が対比してある。そこには「侵略」が「進出」と変えられた実例(!)も出ているのだ。どうしてそんなことが可能だったかと言えば、「検定前」の欄にある記述と、「検定後」の欄にある記述は、違う教科書から取ったものだったからである。

 日本の検定は、「侵略」という表現を使った教科書も、「進出」という表現を使った教科書も、両方、認可しているのだ。この寛容さ(!)を悪用して、「侵略」という表現を使った教科書Aの記述を「検定前」の欄に置き、「進出」という表現を使った教科書Bの記述を「検定後」の欄においた。そして教科書の名前は出さなかった。
 読者は誰だって同じ教科書が検定前と検定後ではそう変えられたのだと思いこむに違いない。これは読者をまどわすための悪質な詐術であり、明白なペテンであって、絶対許されるべきものではないと私は思う(中略)。

 中川昇三氏は「教科書報道の批判に答える」の末尾で次のように言っておられる。
「しかし、『悪質な詐術』『仕掛け人』などの言葉を用いつつ、『これは明らかに意図的に作った虚報だ』と断定されることは承服できない。意図的に虚報を作るなど、新聞の自殺行為以外の何物でもない、とだけいっておこう」(『諸君!』十二月号、九九ページ)

 だが中川氏よ、教科書の名前をかくした一覧表を作り、「侵略→進出」が検定によって起ったと読者に思いこませようとするやり方は「悪質な詐術」ではないのか。一覧表を作った人間は、「検定前」の欄の教科書と「検定後」の欄の教科書が別会社のものであることを知っていたはずである。「これは明らかに意図的に作った虚報」ではないのか。もしそうでないのなら、このような記事作成術を中川昇三氏は何と呼ばれるのか。これを公開質問の第三条とする。」

 「中川昇三氏らが展開しておられる「大スジ論」によると、文部省の検定は邪悪そのものの如くである。北京政府や韓国政府からの抗議に答えて、日本政府は、「政府の責任において」両国の意に沿うようにしたい趣旨の統一見解を出した。政府が責任をもって教科書に口を出すことは、国定教科書に一歩近づくことではないか。これに対して『朝日新聞』はそれほど批判的でなかったように思われる。このような政府統一見解に対して中川昇三氏はどうお考えであろうか。これを公開質問の第十条とする。」

 「更に第三点の南京大虐殺についてであるが、これは今後のこともあるので、肖向前氏の抗議とは別にしても南京大虐殺についての『朝日新聞』社会部の見解を聞いておきたい。これについては鈴木明氏の「南京大虐殺のまぼろし」(文藝春秋・昭和四十八年刊・大宅賞受賞作品)や前田雄二氏の「戦争の流れの中に」(善本社・昭和五十七年刊)などによって、なかったことが十分証明されていると思うから、ここで述べる必要はないであろう。しかし簡単に言って、三十万人もの民間人の大虐殺をやるためには、イデオロギーが必要であり、システムが必要であり、道具が必要であり、資材が必要である。そんなものが当時の中支派遣軍にありえたかどうか、誰に聞いてもわかるであろう。『朝日新聞社』にだって従軍記者として、また兵隊・将校としての体験者もいるはずである。たとえば総司令官の松井石根大将はむしろ人道的軍人として知られた人であった。ヒトラーやアイヒマンではないのである。その人となりを知っている人も少なくないはずだ。松井大将が市民の大虐殺を命ずる可能性はゼロであり、また総司令官に知らせないで末端が三十万の市民大虐殺をやることは軍制的・技術的に不可能である。戦争の犠牲者がいなかったのではないが、三十万とか二十万ではなく、三ケタ下の数字であろう。『朝日新聞』はやはり二十万とか三十万とかの市民の大虐殺があったと信じているのだろうか。信じているとすればその数字の根拠を教えてもらいたいものである。これを公開質問の第十三条とする。」

 中川昇三および朝日新聞社は「朝日新聞への公開質問十四ヵ条」に何一つ答えられず、公開論争から逃げ去った。日本の大新聞が文部省の教科書検定には目に角を立て噛みつきながら日本の歴史教科書に対する外国政府の検閲を一向に問題視しない原因について、渡部昇一教授は「日本の大新聞がとてつもない大阿呆だからではなくて、記者魂を何者かに売り渡しているからである」と喝破した(13)。

 一九九一年、ソ連が崩壊し、マルクス・レーニン主義の破綻が誰の目にも明白になった。しかし朝日新聞社はそれについて深く反省しなかったばかりか、従軍慰安婦強制連行説を捏造し日韓間の深刻な外交問題に発展させ、日本国民の糾弾の矛先を、米ソ冷戦時代の朝日の親ソ容共報道や中国共産党の文化大革命やクメールルージュ(ポルポト派)を礼賛した朝日の反人道報道から、日本軍と大日本帝国とに仕向け、狡猾に自己保身と組織防衛を図り、ソ連の跡を追うことから逃れた。
 
 平成八年(一九九六)六月六日の朝日新聞社説は、慰安婦強制連行の被害者を自称する韓国人老婆に日本政府もしくは軍に強制連行されたことを証明する証拠の提示を求めた奥野誠亮(元内務省官僚)ら自民党長老議員に対して、

 「『証拠』を求めるというのはどういう感覚だろうか。そこからは被害を受けた人の立場から日本の歴史をとらえなおしてみるという政治家らしい視野の広さや懐の深さはうかがえない」

という非難を浴びせた。「証拠を求める感覚」は真実を貴び冤罪を厭う人間の良心である。これを難詰した朝日新聞記者は、強制連行を証明するに足る証拠資料も状況証拠も無いのに彼女等を被害者、日本を加害者と断定することに何ら疑問と躊躇を抱かなかった。朝日記者には人間の良心が完全に欠落していた。朝日社説はそれを自白したのである!

 革新勢力は、「共産主義者は、いかなる犠牲を辞さない覚悟がなければならない。あらゆる種類の詐術、手練手管及び策略を用いて非合法的方法を活用し、真実をごまかし且つ隠蔽しても差し支えない、大胆に恐れなく攻撃する一方、整然と退却すること、『悪魔とその祖母』とさえ妥協することをよくしなければならない」という教義を持つマルクス・レーニン主義によって生み出された者であるが故に、永久に迷執する無恥な狂獧者であり、レーニンと同じく、太古の時代から今日まで人類によって培われてきたあらゆる道徳倫理を蹂躙し(14)、この世に地獄への門を開く。

 しかし参政権を有する日本国民は、未だ大東亜戦争における我が国の敗因を知悉することも克服することも出来ず、反日の革新勢力の跳梁跋扈を許し続けている。
 戦後民主主義なるものは、詐欺、背信、虚偽、偽善、錯乱、侮辱、冷酷、醜悪、無恥、売国、卑劣、卑怯、卑屈,など人間界に存在するありとあらゆる悪徳を体現する反日的日本人が白昼堂々と大手を振って跳梁跋扈する、神武肇国以来、我が国の最も恥ずべき倒錯の時代である。

 今日、国民の代表である我が国の政治家と官僚の多くが国家に対する忠誠を忘却し、為政者に必要不可欠な、国家を支える四本の綱たる礼義廉恥―礼節を正し、信義を守り、足るを知って贅沢を慎み、恥を知って名誉を重んずる精神―を喪失し、自己保身に汲々として私利私欲に溺れ、無知をもって過去の反省と為し、卑屈をもって外交の美徳と為す錯誤を犯している。国家の栄誉と国民の幸福とを蹂躙する彼等の無様な醜態は、戦後民主主義の産物以外の何物でもない。伊藤博文の座右の書「ザ・フェデラリスト」の詳述するデモクラシーの弊害すなわち入念な構成を持つ非公選の上院によって矯正されなければならない以下の公選議院特有の欠陥が、衆参両院から成る実質的公選一院制の国会から内閣まで国政全般を覆い尽くしているのである。

<公選議院特有の欠陥>

・党利党略に走り、度を越した有害な決議を行う。
・立法の目的や原理について、必要な理解と知識がない。
・不安定で、思いつきの政策を乱発し、自国の利益を他国の餌食にする。
・私欲に塗れ、国家の名誉を重んじない。
・重大な事態において責任が欠如する。
・議席を獲得するために有権者をだます。

 我々日本国民自身がこの戦後民主主義を覆滅して敗戦前から今日に至るまで我が国を呪い続けるレーニンの亡霊を払拭しない限り、日本の再興はあり得ないのである。蓋し祖国の高貴なる名誉と価値、光輝なる歴史が国民に知られてこそ、国民は、国家の生命力そのものである「祖国を愛し守り発展させんとする精神」を身命に宿すのである。

(1)【コミンテルン資料集1】一九三~一九四頁「一九二〇年八月六日コミンテルン第二回大会 資本主義世界とコミンテルン プロレタリア革命とコミンテルン」、五〇四頁「一九二一年七月十二日共産主義インタナショナルと共産主義的青年運動についての決議」

 共産党が私有財産制度を否認し生産手段を国有化する(この実態は党有化であり共産党による独占私物化)一党独裁国家は、果たして何時どのようにして死滅し得るのか?誰もが抱くこの疑問に対してレーニンは「われわれは、国家は不可避的に死滅するというにとどめて、この過程が長期にわたること、それが共産主義の高度の段階の発展速度に依存していることを強調し、国家死滅の期日やそれの具体的形態の問題はまったく未解決のままに残しておいてさしつかえない。なぜなら、このような問題を解決するための材料がないからである」という実に詭弁家らしい逃げ口上を述べ、回答を避けた(レーニン【国家と革命】一三五頁)。
 筆者が推察するに、共産主義国家内部においてマルクス・レーニン主義の特徴であるテロ連鎖現象が長く続いて人口が激減し、国家の存立そのものが不可能になる時、国家は死滅するのであろう。
(2)田中正明【掃葉集このままでは日本は危ない】一三頁。
(3)佐藤和男監修【世界がさばく東京裁判】二六六~二七五頁「サンフランシスコ平和条約十一条の正しい解釈」
(4)官報号外昭和二十七年十二月九日第十五回国会衆議院会議録第十一回。
(5)冨士【南京大虐殺はこうして作られた】六三頁。【パル判決書上】五三七~五三八頁。
(6)小堀【東京裁判日本の弁明】九~六二頁。【パル判決上】五三五~六一四頁「第三部証拠および手続きに関する規則」
(7)参議院予算委員会(第四十六回国会閉会後)会議録第二号 昭和三十九年十月三十日。
(8)大井満【仕組まれた南京大虐殺】二三七~二四一頁。
(9)田中正明【朝日が明かす中国の嘘】参照。
(10)冨澤繁信【南京安全地帯の記録完訳と研究】一三八頁。
(11) 田岡良一【空襲と国際法】八一、九四、一二六、二六六頁。防守の成立要件は「ある都市を占領する意図を持って都市に迫る軍隊の存在」と「その都市内に在ってこの意図を妨げる軍隊の存在」との二要素が揃うことである。一九〇七年ハーグ陸戦条約第二十五条が防守都市を占領せんとする軍隊に非戦闘員に被害を与える無差別の砲爆撃という極端なる害敵手段の行使を許した理由は次の二つである。

 一つは、もし味方軍の攻撃隊が砲爆撃の対象を都市の一部に限る時、敵兵は都市内の他の区域に退避してこの場所に拠り味方軍を待ち伏せることが可能となり、結果として味方軍が速かに敵兵を都市より駆逐し又は降伏させることが困難になるが故に、迅速に占領作戦行動を遂行し戦線の進展を促進する為には、都市全体に砲火を注ぐ無差別砲爆撃が軍事上必要やむを得ざる害敵手段となるからである。

 もう一つは、陸上の戦線付近にある都市の住民は、敵軍の接近を知って避難し又は都市を防守する軍隊の指揮官より戦闘開始に先立って退去を命ぜられることを常とするが故に、敢えて砲火を浴びる危険を辞さない決意を持つ住民の外に滞在する者が稀であり、斯かる都市への砲爆撃によって非戦闘員の生命に加えられる危害は比較的大きくないからである。

(12) 渡部昇一【萬犬虚に吠える-教科書問題の起こりを衝く】三一四~三四七頁。
(13) 渡部【萬犬虚に吠える-教科書問題の起こりを衝く】三五三頁。
(14)一九二〇年八月六日コミンテルン第二回大会においてレーニン、ジノービエフ、ブハーリン、トロツキーらは次のように宣言した。

 「共産主義者は、その全活動をつうじて―革命的ストライキの指導者としても、地下グループの組織者としても、労働組合の書記としても、大衆集会での煽動者あるいは代議士としても、協同組合活動家あるいはバリケード戦士としても―つねに自己を失うことなく、共産党の規律ある党員、献身的な闘士として、資本主義社会とその経済的基盤、その国家形態、その民主的虚偽、その宗教、その道徳に対する徹底的な敵として、プロレタリア革命の自己犠牲的な兵士、新しい社会の倦むことを知らぬ先触れとして、終始する。

 男女の労働者諸君!

 この世界には、そのもとにたたかって死するに値する旗は、ただ一つしかない。それは、共産主義インタナショナルの旗である。」(【コミンテルン資料集1】一九三~一九四頁)。

【主要参考引用文献】

<公刊戦史>

大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯1~5
大本営海軍部大東亜戦争開戦経緯1~2
支那事変陸軍作戦1~3
昭和二十年の支那派遣軍1~2
北支の治安戦1~2
大本営陸軍部1~10
関東軍1~2
中国方面陸軍航空作戦
海上護衛戦
(以上、防衛庁戦史叢書/朝雲新聞社)

日中戦争1~5(児島襄著/文春文庫、一九八八)
太平洋戦争上下(児島襄著/中公新書、一九六六)
天皇1~5(児島襄著/文春文庫、一九八一)
第二次世界大戦ヒトラーの戦い1~10(児島襄著/文春文庫、一九九二)
大東亜戦争への道(中村粲著/展転社、一九九〇)
軍閥興亡史1~3(伊藤正徳著/光人社文庫、一九九八)
興亡と夢1~5(三好徹著/集英社文庫、一九八八)
重臣たちの昭和史上下(勝田龍夫著/文春文庫、一九八四)
ヒトラーの戦場(柘植久慶著/集英社文庫、一九九三)

<研究書>

大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義(三田村武夫著/自由選書、一九八七)
近衛文麿とルーズベルト(中川八洋著/PHP出版、一九九五)
近衛新体制(伊藤隆著/中公新書、一九八三)
参謀の戦争(土門周平著/PHP文庫、一九九九)
ピースフィーラー(戸部良一著/論創社、一九九一)
黎明の世紀(深田祐介著/文芸春秋、一九九一)
異なる悲劇日本とドイツ(西尾幹二著/文芸春秋、一九九四)
繆斌工作成らず(横山銕三著/展転社、一九九二)
仕組まれた南京大虐殺(大井満著/展転社、一九九五)
南京大虐殺はこうして作られた(冨士信夫著/展転社、一九九五)
南京虐殺の徹底検証(東中野修道著/展転社。一九九八)
朝日が明かす中国の嘘(田中正明編著/高木書房、二〇〇三)
敗者の戦後(入江隆則著/徳間文庫、一九九八)
ハルノートを書いた男(須藤真志著/文春新書、一九九九)
日ソ諜報戦の軌跡―明石工作とゾルゲ工作(黒羽茂著/星雲社、一九九一)
戦略大東亜戦争(佐藤晃著/戦史刊行会、一九九六)
満洲事変(西内雅著/錦正社、一九八八)
世紀末から見た大東亜戦争(現代アジア研究会編/プレジデント社、一九九一)
日本は侵略国家ではない(勝田吉太郎編/善本社、一九九三)
世界から見た大東亜戦争(名越二荒之助編/展転社、一九九一)
アジアに生きる大東亜戦争(アセアンセンター編/展転社、一九八八)
封印の昭和史(小室直樹、渡部昇一著/徳間書店、一九九五)
抹殺された日本人の現代史(小日本社編集員会編/全貌社、一九九五)
自ら国を潰すのか(小室直樹、渡部昇一著/徳間書店、一九九三)
かくて昭和史は甦る(渡部昇一著/クレスト社、一九九五)
日本史から見た日本人昭和編(渡部昇一著/クレスト社、一九八九)
人間はなぜ戦争をするのか(日下公人著/クレスト社、一九九六)
軍ファシズム運動史(秦郁彦著/原書房、一九八〇)
戦後秘史崩壊の歯車(大森実著/講談社、一九七五)
悪の論理(倉前盛通/角川文庫、一九八〇)
日本的組織原理の功罪(長谷川慶太郎編/PHP、一九八六)
情報戦の敗北(長谷川慶太郎編/PHP文庫、一九九七)
パール博士の日本無罪論(田中正明著/慧文社、一九六三)
満州国の遺産(黄文雄著/光文社、二〇〇一)
ノモンハン事件の真相と戦果ソ連軍撃破の記録(小田洋太郎、田端元著/有朋書院、二〇〇二)
Venona Decoding Soviet Espionage in America(John Earl Haynes、Harvey Klehr著/エール大学、二〇〇〇)

<資料>

パル判決書上下(東京裁判研究会編/講談社学術文庫、一九八四)
東京裁判却下未提出弁護側資料1~8(東京裁判資料刊行会/国書刊行会、一九九五)
東京裁判日本の弁明―東京裁判却下未提出弁護側資料抜粋(小堀桂一郎編/講談社学術文庫、一九九五)
終戦工作の記録上下(江藤淳監修、波多野澄雄編/講談社文庫、一九八六)
尾崎秀実著作集1~5(尾崎秀実著/勁草書房、一九七九)
小川平吉関係文書1~2(岡義武編/みすず書房、一九七三)
木戸幸一関係文書(木戸日記研究会/東京大学出版、一九六六)
木戸幸一日記上下(東京大学出版、一九六六)
近衛日記(共同通信社、一九六八)
宇垣一成日記(みすず書房、一九七一)
萱野長知孫文関係資料集(久保田文次編/高知市民図書館、二〇〇一)
枢密院重要議事覚書(深井英五著/岩波書店、一九五三)
大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌(軍事史学会編/錦正社、一九九八)
東條内閣総理大臣機密記録(伊藤隆編/東京大学出版、一九九〇)
東條英機宣誓供述書(東條由布子編/ワック文庫、二〇〇九)
鳩山一郎日記(鳩山一郎著/中央公論社、一九九九)
現代史資料ゾルゲ事件1~4(みすず書房、一九七一)
開戦前夜の近衛内閣(尾崎秀実、今井清一著編著/青木書店、一九九四)
現代史資料国家主義運動(みすず書房、一九六三)
現代史資料日中戦争1~5(みすず書房、一九六六)
現代史資料国家総動員1~2(みすず書房、一九七〇)
畑俊六日誌(みすず書房、一九八三)
矢部貞治日記銀杏の巻(読売新聞社、一九七四)
最終戦争論戦争史大観(石原莞爾著/中公文庫、一九九三)
石原莞爾資料国防論策編(角田順編/原書房、一九九四)
敗戦の記録(参謀本部編/原書房、一九六七)
杉山メモ上下・大本営政府連絡会議等筆記(参謀本部編/原書房、一九八九)
日本陸海軍事典(原剛、安岡昭男編/新人物往来社、一九九七)
コミンテルン資料集1~6(村田陽一編/大月書店、一九八一)
我が闘争上下(アドルフヒトラー著/角川文庫、一九七三)
マルクスエンゲルス共産党宣言(岩波文庫、一九五一)
国家と革命(レーニン著/岩波文庫、一九五七)
満洲国歴史(矢野仁一著/目黒書店、一九三三)
禁苑の黎明(レジナルド・ジョンストン著/大樹社書房、一九三四)
満洲国出現の合理性(ジョージ・ブロンソン・レー著/日本国際協会、一九三六)
日本経済の再編成(笠信太郎著/中央公論社、一九三九)
日本経済の再編成批判(山本勝市著/日本工業倶楽部調査課、一九四〇)
一億人の法律(猪俣浩三著/有光社、一九四〇)
欽定憲法の真髄と大政翼賛会(川崎克著/固本盛國社、一九四一)
太平洋問題研究叢書太平洋に於ける英帝国の衰亡(角田順著、太平洋協会編/中央公論社、一九四二)
新世界の構想と現実(細川嘉六編/中央公論社、一九四二)
大アジア主義の歴史的基礎(平野義太郎著/河出書房、一九四五)
進歩的文化人―学者先生戦前戦後言質集(全貌社、一九五七)
憲法義解(伊藤博文著/岩波書店、一九四〇)
憲法制定と欧米人の評論(金子堅太郎著/日本青年館、一九三八年版)
アメリカ共産党とコミンテルン-地下活動の記録(H・クレア、J・H・ヘインズ、F・I・フィルソフ著/五月書房、二〇〇〇)
帝国憲法制定会議(清水伸著/岩波書店、一九四〇)
修身全資料集成(宮坂宥洪、渡部昇一編/四季社、二〇〇〇)
空襲と国際法(田岡良一著/巌松堂書店、一九三七)
戦時国際法(田岡良一著/日本評論社、一九三八)
リットン報告書全文(国際聯盟支那調査委員会編/朝日新聞社、一九三二)
新国家大満洲(趙欣伯著/東京書房、一九三二)
内閣制度の研究(山崎丹照著/日本出版、一九四二)
マイン・カンプ批判国民社会主義ドイツ労働党初期の運動(石原莞爾著/東亜連盟同志会、一九四五)
犬養毅伝(犬養毅伝刊行会編/犬養毅伝刊行会、一九三二)
昭和十五年朝日年鑑(朝日新聞社編/朝日新聞社、一九三九)
独裁政と法律思想:現代欧米の法律思潮(高柳賢三著/河出書房、一九三八)
阿片会議の解説(国際聯盟協会編/国際聯盟協会、一九二五)
南京安全地帯の記録完訳と研究(冨澤繁信著/展転社、二〇〇四)

<伝記回顧録>

参謀(児島襄著/文春文庫、一九七五)
日本の曲がり角(池田純久著/千城出版、一九六八)
幣原喜重郎とその時代(岡崎久彦著/PHP、二〇〇〇)
敗戦日本の内側(富田健治著/古今書院、一九六二)
侍従長の回想(藤田尚徳著/中公文庫、一九八七)
風雪五十年(内田信也著/実業之日本社、一九五一)
田尻愛義回想録(田尻愛義著/原書房、一九七七)
昭和動乱の真相(安部源基著/原書房、一九七七)
日本軍閥暗闘史(田中隆吉/中公文庫、一九八八)
大本営機密日誌(種村佐孝著/芙蓉書房、一九八五)
石原莞爾(藤本治毅著/時事通信社、一九六四)
石原莞爾(青江舜二郎/中公文庫、一九九二)
石原莞爾甦る戦略家の肖像上下(佐治芳彦著/日本文芸社、一九八七)
陸軍の異端児石原莞爾(小松茂朗著/光人社、一九九一)
将軍石原莞爾(白土菊枝著/中央公論社、一九九五)
秘録石原莞爾(横山臣平著/芙蓉書房、一九七一)
秘録宇垣一成(額田坦著/芙蓉書房、一九七三)
秘録土肥原賢二(土肥原賢二刊行会編/芙蓉書房、一九七三)
支那事変の回想(今井武夫著/みすず書房、一九六四)
作戦部長東條ヲ罵倒ス(田中新一著、松下芳男編/芙蓉書房、一九八六)
大東亜戦争収拾の真相(松谷誠著/芙蓉書房、一九八〇)
支那事変戦争指導史(堀場一雄著/原書房、一九七三)
堀場一雄反骨の記録ある作戦参謀の悲劇(芹沢紀之著/芙蓉書房、一九七四)
岡村寧次大将資料(稲葉正夫編/原書房、一九七〇)
大本営参謀の情報戦記(堀栄三著/文春文庫、一九九六)
大東亜戦争回顧録(佐藤賢了著/徳間書店、一九六六)
参謀本部の暴れ者陸軍参謀朝枝繁春(三根生久大著/文藝春秋、一九九二)
バルト海のほとりにて武官の妻の大東亜戦争(小野寺百合子著/共同通信社、一九八五)
瀬島龍三(保坂正康著/文春文庫、一九九一)
沈黙のファイル瀬島龍三とは何だったのか(共同通信社会部編/新潮文庫、一九九九)
近衛文麿上下(矢部貞治著/弘文堂、一九五二)
蒋介石秘録12(サンケイ新聞社、一九七一)
ルーズベルト秘録下(産経新聞社、二〇〇〇)
第二次大戦に勝者なし上下(A・C・ウェデマイヤー著/講談社学術文庫、一九九七)
昭和研究会(後藤隆之助編/経済往来社、一九六八)
昭和研究会(酒井三郎著/TBSブリタニカ 一九七九)
日米開戦の悲劇(ハミルトンフィッシュ著/PHP文庫、一九九二)
私の見た東京裁判上下(富士信夫著/講談社学術文庫、一九八八)
私の中の日本軍上下(山本七平著/文春文庫、一九八三)
国際スパイゾルゲの真実(下斗米伸夫著/角川文庫、一九九五)
ゾルゲ東京を狙え上下(ゴードンプランゲ著/原書房、一九八五)
日本陸軍英傑伝(岡田益吉著/光人社文庫、一九九四)
さらば吉田茂(片岡鉄哉著/文芸春秋、一九九二)
ハイエク(渡部昇一著/PHP出版、一九九九)
1941.12.20アメリカ義勇航空隊出撃(吉田一彦著/徳間文庫、一九九八)
二つの祖国にかける橋(吉田東祐著/元就出版社、二〇〇一)
プリンス近衛殺人事件(V・A・アルハンゲリスキー著/新潮社、二〇〇〇)
秘録東京裁判(清瀬一郎/中公文庫、一九八六)
悲劇の証人(西義顕著/文献社、一九六二)
情報将軍明石元二郎(豊田穣著/光人社文庫、一九九四)
昭和史の証言真崎甚三郎、人その思想(山口富永著/政界公論社、一九七〇)
昭和憲兵史(大谷敬二郎著/みすず書房、一九六六)
昭和史と私(林健太郎著/文芸春秋、一九九二)
回顧七十年(斎藤隆夫著/中公文庫、一九八七)
特高の回想ある時代の証言(宮下弘著/田畑書店、一九七八)
明治・大正・昭和・政界秘史(若槻礼次郎著/講談社学術文庫、一九八三)
戦前という時代(山本夏彦著/文春文庫、一九九一)

<その他>

革命について(ハンナ・アーレント著/筑摩書房、一九九五)
ヴァンデ戦争-フランス革命を問い直す(森山軍治郎著/筑摩書房、一九九七)
戦争学(松村劭著/文春新書、一九九七)
朝日新聞血風録(稲垣武著/文春文庫、一九九六)
悪魔祓いの戦後史(稲垣武著/文春文庫、一九九七)
正統の哲学異端の思想(中川八洋著/徳間書店、一九九六)
悪魔の思想(谷沢永一著/クレスト社、一九九六)
日本の神々の事典神道祭祀と八百万の神々(薗田稔、茂木栄監修/学習研究社/一九九七)
国民のための戦争と平和の法(小室直樹、色摩力夫著/総合法令、一九九三)
痛快憲法学(小室直樹著/集英社、二〇〇一)
憲法はかくして作られた(伊藤哲夫著/日本政策研究センター、一九九一)
地政学入門(曽村保信著/中公新書、一九八四)
インフレとデフレ(岩田規久男著/講談社現代新書、一九九〇)
歴史の鉄則(渡部昇一著/PHP文庫、一九九六)
萬犬虚に吠える教科書問題の起こりを衝く(渡部昇一著/徳間文庫、一九九七)
亡国か再生か(西村真悟著/展転社、一九九五)
朝日新聞の犯罪(世界日報社、一九八六)
日本的革命の哲学(山本七平著/PHP出版、一九八二)
人類後史への出発(石原莞爾平和思想研究会編/展転社、一九九六)
世界が裁く東京裁判(終戦五十周年国民委員会編/ジュピター出版、一九九六)
日本国憲法を考える(西修著/文春新書、一九九九)
一九四六年憲法(江藤淳著/文春文庫、一九九五)
現行憲法無効宣言(南出喜久治著/動向平成九年盛夏号所載)
国際法と日本(佐藤和男著/神社本庁研修ブックレット、一九九二)
正統憲法復元改正への道標(小森義峯著/国書刊行会、二〇〇〇)
現憲法無効論-憲法恢弘の法理(井上孚麿著/日本教文社、一九七五)など
(順不同)

 その他多数にのぼりますが、この場を借りて著者先生方に厚くお礼申し上げます。なお本文中の引用資料について、大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌を除いて、読者の便を考え、筆者がカタカナをひらがなに、歴史仮名遣いを現代仮名遣いに直し、適宜句読点を加えました(龍井 榮侍)。

【石原莞爾の予言】 

 それにしても日本は今後物心両面に亘る恐るべき疾風怒濤時代を迎えるのである。アメリカは自己の善と信ずる生活文化、様式、思想を滝の如く注いで日本をアメリカ化せんとすることは明らかである。それは教育に浸透し、生活を風靡するに至るであろう。それに英国的、ソ連式思想が加わってくる。日本的思想、醇風美俗、世界人心は滔々たる大勢に押し流され、寸断されもみくちゃにされる。

 私は日本は思想的にどん底まで叩き落とされるものと確信する。満洲事変、支那事変においても日本国民は目覚めず、大東亜戦争においても未だ精神的に立ち上がらず、その敗戦の惨烈さに遭ってはじめて覚醒するかと思えば未だしの感である。要するにまだ足りないのだ。落ちて落ちてどん底に突きあたりどうにもならぬ時に至ってはじめて民族の魂が究極の拠り所を呼び求めるのである。一陣の清風、一個の炬火、それは真に魂が求める時にこそ与えられるべきものである。怒濤よ逆巻け、暴風よ吹け、それはすべて日本人が経験しなければ目覚め得ぬ「民族の禊」である事を私は確信する(昭和二十年八月二十八日、石原莞爾)。


【あとがき】

 私は幼少の頃より周囲の人間から変人扱いされてきたほどに歴史好きな男であり、いつか総合戦史を執筆したいと思っていました。

 森首相が「日本は天皇を中心とする神の国」と発言した直後に行われた衆議院選挙の最中に、私はボランティアとして西村真悟さんの選挙事務所へ手伝いに行ったのですが、そこで遠山景久氏と「戦争と共産主義」の復刊に携わった月間日本発行人の南丘喜八郎氏の部下である月間日本編集委員の野間健さんと出会いました。私も野間さんも、「戦争と共産主義」を所有している人間は日本にほとんど居ない、と思っていたので、不思議な縁に驚き、すっかり意気投合しました。

 私は、東京裁判史観を覆す比類なき名著と評価される「大東亜戦争への道」のどこが名著なのかサッパリ判らず、せいぜい歴史辞書として役に立つ程度だな、と思っていましたが、野間さんも、中村教授は木を見て森を見ていない、と批判されており、私は自分の書評に自信を持ちました。私が総合戦史を書くために資料を集めていることを話すと、野間さんから是非、月間日本に寄稿してくれるよう頼まれ、原稿を書いたのですが、結局自分の力量不足のためボツになってしまいました。しかしこれを契機に本格的に戦史を執筆し、石原莞爾のホームページ管理人の八橋さんに無理を言って石原莞爾メールマガジンに2001年5月から翌年7月まで連載していただきました。割と好評だったので調子に乗って単行本化に挑戦してみたのですが、ダメでした。しかし「祖国と青年」の編集部を通して、元陸軍軍人であり、かつて山陽電鉄取締役を務められ現在は山口県の自動車学校社長兼国民文化研究所委員の加藤善之さんに原稿を読んでいただいたところ、加藤さんは私の自宅にまで電話をくれて「読んで本当に仰天しました。生きてて本当に良かった。ぜひあなたのような方に日本を指導していただきたい」と(!?)こちらが恐縮するほど(笑)大絶賛し激励して下さいました。そこで私は再度加筆修正を行い出版社の方に指摘された「資料の過度の生引用」を改め、三分の一ほど書き改めて「新風舎」に原稿を審査していただいたところ、大絶賛されました。ようやく私の原稿は単行本化に相応しい水準に達したということでしょう。

 しかし深刻な出版不況の折、出版社が無名の人間の戦史を企画出版することは困難な様で、私は著者と会社が出版資金を折半する共同出版を提案されたのですが、残念ながら私は貧乏なもので、資金を工面できず単行本化を断念せざるを得ませんでした。

 しかしこれも八百万の神々のお導きでありましょう。石原莞爾に「こらっ!龍井榮侍よ、私利私欲に溺れることなく日本民族の魂と真姿を蘇らせよ!」と大喝されたものと自分を慰めています。

 学校が生徒に教える日本史とは全く違う「石原莞爾と尾崎秀実の戦い 国民のための大東亜戦争史1928~56」を読み、真実を求め祖国を護る志を身命に宿した方、是非とも親類縁者、仲間友人同僚の方々に東亜連盟戦史研究所を宣伝して下さい。そして最低でも十人の知り合いに、この戦史を読ませて下さい。そうすれば日本は甦るでしょう(笑)。衰退著しい我が国を再興させる原動力は、国民一人一人の志です。

 この作品が少しでも読者の皆様の戦史に対する関心や興味を高め、皆様の勉強と研究、そして人生に役立つことを祈念しつつ、私は筆を擱きたいと思います。

 読んでいただき有難うございました。



スポンサーサイト



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

龍井榮侍

Author:龍井榮侍
 東亜連盟戦史研究所は、主として大東亜戦争に関する国民の戦史知識水準の向上を目指して開設されました。

 弊研究所が確信する「正統戦史研究」とは、信用の置ける第一次史料を集め、史料に事実を語らせ、独自の史観を構成することです。だが第一次史料とて作成者の欺瞞、錯誤を含んでいるかも知れず、たとえ紛れもない真実を示していても、所詮それは膨大な歴史的事実のごく一部にすぎません。

 歴史の真実の探求は極めて困難であり、戦史研究において歴史学徒が最も留意すべき事項は、間違いが判明すれば直ちに修正することであり、最も禁忌すべき事項は、「自説保全による自己保身」に走ることです。よって弊研究所は、読者の皆様の建設的な礼節ある御意見、御批判、御叱正を歓迎します。
 
 所長の本拠地は森羅万象の歴史家ブログです。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード